思いやりの法則


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自己嫌悪に陥るのはやめよう

同性愛の性癖を持つ人は、そういう自分の事をどう見るべきなのだろうか?教会の教えは、「同性愛性癖を持つ人達に自己憎悪を引き起こす」とよく非難される。私自身も以前、とてつもない自己嫌悪に陥り、このまま地面が自分を飲み込んでくれればいいと思った時期があった。しかしその逆に、異常なほどに過度の自己愛を持った時期もあるので、私の場合は平均すれば差し引きゼロになるだろう。もちろん、同性愛者達の自己卑下や、時には自殺につながる傾向は重大な問題であり、この問題は取るに足らないと言っているのではない。それに、同性愛性癖を持つ人達に対する周りの思いやりの欠如も、もちろんこの問題を大きくしている。同性愛者達は決して自己嫌悪に陥るべきではない。しかし、だからといって、まるで道徳が消え去ったかのように、欲望の赴くままに行動すればよいというのは解決方法にはならない。又、キリスト教の教えが、ちゃんと理解されてさえいれば、自己嫌悪を促すとも思えない。この同性愛という性質を他にもよくある性格欠陥として理解すれば、また原罪の結果である性欲を経験する人なら誰でも犯しがちな罪だと理解し、人の威厳と主体性は性欲だけでなく他のあらゆる要素からも成り立っているという事を忘れなければ、自己嫌悪に陥る必要はない。更に「心に浮かんだ考えをどのように行動に移すか」においては、選択の余地もあり本人が責任を持つべきであるが、「どういう考えが心に浮かぶか」に関しては本人は責任を負えない。もちろん私達は罪深い行いを悔いるべきだが、それはある意味、異性愛者でも同じ事で、異性愛者達もかなりの頻度であちこちで罪を犯している。同性愛という性癖は罪ではないのだから、罪悪感を感じるべきではない。神のイメージに似せて造られた人間として、私達は自分自身にプライドを持って良い。

「罪を憎み、人を憎まず。」

同性に惹かれる経験を持たない人は、同性愛性癖を持つ人達をどのように見たらよいのであろうか?上に書いたように、キリスト教は「罪を憎み、人は憎まず。」という格言を私達に申し付けている。しかし、人間の本質として私達は、このような一見矛盾して見える道義を、総合的に見るよりも、簡単な道を選んで無視してしまう傾向にある。多くの場合、罪と罪人(そして潜在的な罪人、つまり同性に惹かれる人)との両方を嫌悪する方に陥るか、あるいは罪も罪人も両方愛し、罪自体の存在をも拒否するかのどちらかである。しかし、キリスト教会は、「屋根の棟の両側に足をおいてしっかり歩くように、はっきり罪を拒み、罪を肯定する行動を拒否しながらも、同時にそういう状態にある人達への同情を忘れず愛するように」と言う。つまり教会は、「極端な嫌悪」と「極端な許容」、又政治的な「右派」と「左派」の中道主義を取っており、だから教会の教えはいつも人を誤り導くと言われる。「心からの思いやり」と「罪への非難」の二つの要素を調和させるのは難しい。どこでその線を引くかという特定の状況では、必ず曖昧さがある。それにも関わらず私達は、自分の良心によってこの二つの性質を調和させるしかなく、クリスチャンであるならその両方を実行しなければならない。この格言の二つの要素は信念の基礎となるものである。

特有のライフスタイルを送っている人への忍耐

同性に惹かれるという性癖は(同性愛の実際の営みとは違って)、自分で選べるものではなく、とても根深いので、同性に惹かれることのない人は、彼等に忍耐強く思いやりを持たなければならない。人は自分の行動や自分が支持する考えに責任を持つべきであるが、自分で選ぶことの出来ない性癖そのものにまで責任を負わせるのは不当である。「神はホモが嫌い」という標識を掲げても何の役にも立たないし、好きで持った訳ではない性癖を持つ人達への卑怯な中傷に見える。又、実際同性愛を奨励し実行している人達にも、忍耐と思いやりは必要である。性癖は生まれつきのものらしいし、現代社会も「性欲を満たすことは悪いことではない」と同性愛傾向にある人達に言っているようなものだから、彼等の多くは単に無知で「同性愛行為は何も悪くない」と本気で信じるように誤って導かれている。また多くが「セックスをしない事」と「孤独感」を間違って同一視してしまっている。親密で純粋な友情が確立されていればそういうことはないはずだから、本当の友情の意味を見失っているこのセックス奨励社会だからこそ、この二つがいっしょに考えられてしまうのだろう。文化は思いやりや美徳の美しさを隠してしまうことが多くあるので、独自の「ライフスタイル」を送っている人達に繊細で気長な理解を持ち、静かに穏やかに愛をもって真実に立ち会うのが良いだろう。

同性愛傾向にある人も忍耐が必要

同性愛性癖のある人が思いやりを持って接してもらう必要があるように、彼等自身もそうでない人に思いやりを持つ必要がある。それは、ホモセクシャル行為の道徳性を認めない人や、そういう性癖があることすら受け入れられない人にも同じである。同性愛性癖のない人にとっては同性愛がどういうものか理解するのは難しいので、彼等が不愉快な反応をしても驚いてはいけない。同性愛の傾向を持つ人がちょっとでも自分を理解して欲しいと望むのであれば、こちらも時々受ける不愉快な反応に、少しの理解を持ってあげてもいいのではないだろうか。人の性格には性癖以外にも色んな面があるので、険しく憎しみ合って反目し合うのを避ける為にも、そういう面でのお互いの共通項を探し出すのがいいだろう。それは特に親戚や家族との間でそうするべきである。私達同性愛性癖を持つ者達は、特に両親や家族への尊敬の念を忘れず、考え方や見方の違う人達への理解と忍耐を持たなければならないと私は思う。神は「父と母を敬いなさい」とおっしゃっているし、ただ親に刃向かって、親が心から反道徳的だと感じる行動を主張する横柄な態度は、私には理解できない。子どもがそれに賛同しなくとも、親にも自分の信じる事を信じる権利がある。率直に言えば、もし「両親と同性愛のライフスタイルとどちらかを選べ」といわれたら、私は迷うことなしに両親を選ぶ。もちろんこの事でいじめられてきた人は違う態度を取るかもしれないが、そういう人でも、親に対して思いやりと理解を示す努力をするべきだと私は思う。つまるところ親も人間なので、良い点があるように弱さも短所も持っている。

宗教の自由

最後に、最近、「自分はキリスト教信者ではあるがキリスト教の性道徳についての教えは受け入れられない」という人達(例えばソールフォースというグループ)が、キリスト教の伝統的な教派を邪険に攻撃しているので、この社会における宗教の自由についてここでお願いしたいと思う。「我々の考えに合うように、教会が教えを変えるべき」と強要する人達は、「宗教に関して強制は出来ない」という理想的な自由を尊重していない。その自由とはアメリカ合衆国憲法や多くの国の憲法の神聖な原理であり、又、『第2ヴァチカン公会議公文書全集』ディグニタティス・ヒューマネイに書かれている教権でも述べられている。もし、宗教の自由が認められた社会に住む人が、自分の宗教の教えに納得できないなら、その人の取るべき聡明で尊敬に値する行動とは、自分が納得する教えを持った宗教を探す事である。一人が納得しないからといって、その宗教の中心的な教義を変えるよう強要し、他の人達にもそれに倣わせようとするのはフェアーでない。同性愛を貫くライフスタイルを肯定したい人は、今の時代には何の取り締まりもないのだから、それを肯定する教派に好きなだけ所属すればいい。ユニテリアニ派や英国国教会派、監督教会派などの世界の価値観と妥協しているいくつかの教派は、そういう人を大歓迎するであろう。しかし、伝統的キリスト教をそのまま信じている人達には、そう信じる権利があるし、彼等は誰にも邪魔されずに神を恐れることなく崇拝できるべきだし、常に神の目に信心深く廉直に写るべきなのである。もちろん親交が壊れるのは悲しいことだが、中身が失われつつある親交など親交ではない。教会は誰でも受け入れるが、罪と行いについてのその教えを変えることは出来ない。キリスト教はいつも世界のいんちきに対抗する否認のシンボルであり続けている。そのキリスト教が何代にも渡って教権で守られてきた神の啓示という信頼の錨からいったん切って放されたら、又、常に変化する現代の価値観をいったん受け入れ是認してしまったら、キリスト教はもう時代を超えた真理ではなくなり、遅かれ早かれ破滅して衰退するだろう。「地獄は神の教会に勝ることはない」と私達に保証して下さった神に感謝しよう。だからこそ神の道徳の言いつけを思いやりを持って守ることをここで決意し、キリストの教会を傷つけるのではなく、強固に築いていこう!それが私の心からの願いである。


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