「今日、救いがこの家を訪れた」

Carino, Al カリノ、アル
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

「全能ゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何ひとつ嫌われない。 」 (知恵の書 11:23-24). ここで神は、いつくしみの心でご自身が創造されたものを守る、命を愛するお方として讃えられています。罪人に対して神は「回心させようとして」見過ごしておられます。まず神が罪を見過ごし、そして悔い改めが続く、という順序は大切です。この順序は私たちの許し方と神の許し方の違いを明らかにしています。神のようでないために、私たちは悔い改めをまず求め、そして私たちは間違いを見過ごし、ふつうは悲しいことに条件つきで許すのです。

エリコの地の裕福な徴税人の頭で、「イエスがどんな人か見ようとした」 (ルカ 19:1-10)、そんなザーカイへのイエスの対応のしかたに、悔い改めへと導くこの順序を見るのです。彼は、イエスがエリコに来ていると聞いた時、イエスを見おろせる木の上に登ったのです。幸いにも、イエスは彼の近くを通りすぎました。その上、イエスは見上げて「ザーカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたのです。

ザアカイはこのできごとをとても喜びました。イエスを家にお迎えする時、喜びにあふれて彼は言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからか何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 これに対してイエスは「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と答えました。

エリコの町の誰もが、ザアカイはどんな人物であるか知っていました。徴税人、しかもその頭として、汚れた取り引きに手を染めていることは誰もが知るところでした。だから、彼は他者を犠牲にして金もうけをしている「たかり屋」としてレッテルが貼られていました。つまり彼は「罪深い男」で、泥棒や殺人者、売春婦と同じく者と見なされていました。このような人々にとって、救いというものはありませんでした。ですからイエスがザアカイの家に泊まると言った時、ファリサイ人は耳を疑い、同時になぜそんなことが起こるのか全く理解できませんでした。けれど彼らは「イエスは罪深い男の家に泊まりに行っている」と皮肉っぽくつぶやくことしかできません。

イエスは違っていました。イエスは心の奥でザアカイはそんなふうに言われるほど悪者ではない、と知っていました。たとえ彼が不道徳な悪事に手を染めているとしても、イエスを一目見たいという熱心な気持ちがあり、良心を失っていないことを表していました。まして木に登っていたという謙遜です。彼の肉体的弱点を強調する木に登るという行為を行ったのです。イエスはそんなザアカイを失望させはしませんでした。

ルカはザアカイがイエスを喜んで受け入れたと言います。イエスを「見る」ことで自分におこった変化を表している喜びです。のけ者ザアカイはこの時ほど自分がそのままで受け入れられていると感じたことはなかったのです! この後、ザアカイは悪事から手を洗うことに何の苦労もしませんでした。イエスに言われずとも、ザアカイはイエスに、財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取っていたものは4倍にして返す、と申し出ます。

では群集の反応はどうだったのでしょう? この素晴らしい本物の会話に対する喜びは表さず、激しく怒ったのです! これでは群集もファリサイ人と何らかわらないのです。しかしイエスには、群集の理解のなさが、ファリサイ人と同じであることに気をとめることもありませんでした。イエスは激高している人より、仲間はずれにされている人の方が気になっているのです。そうしているうちに、イエスは群集の前で、自分の使命は罪深い人を罪から引きはなすことであると示します。イエスは「人の子は失われたものを捜して救うために来たのである」ということばで表していいます。

私たちもザアカイとの共通点をもっています。私たちも彼のように皆、罪深く、だからこそ救いを必要としているのです。ですからザアカイのように「イエスがどんな人かみようと」しようではありませんか。そしてザアカイのように、私たちは受け入れられていると感じ、悔い改めの機会を与えらるのです。イエスの使命は「失われたものを救う」ことなのですから。

イエスを求めることは、神の恵みによって、神に立ち返りたいという気持ちが私たちの中に呼び覚まされた時でさえ、困難が伴うものです。私たちの反応は「はい」なのでしょうか、それとも 「いいえ」 や「また後で」でしょうか? 関係を正すことにおいても同じことが言えます。私たちは今の自分のまま、弱い部分を見せて、へりくだって神の前に立つ準備ができているでしょうか?私たちは、親、親類、友人、仲間や毎日の生活の中に存在している近しい人と関係を正しくする準備ができているでしょうか?そうです、私たちは許し、許しを求める準備ができているでしょうか?

困難はこれにとどまりません。私たちがイエスの呼びかけに応えるとき、すでに判決をうけた人々からみれば特に、私たちの会話は「罪深い者」と疑いの目で見られることでしょう。しかし、そんなこと気にしないようにしようではありませんか。ザアカイが気にもとめなかったように。大切なことは、イエスの私たちへの語りかけを聞くことであって、イエスが私たちの家に泊まりたいとの声に応えると、イエスはザアカイに言われたと同じように「今日、救いがこの家を訪れた」と言われます。

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