2人の息子と帰郷

Carino, Al カリノ、アル
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

子供は父親に背いた時、どんなことをするでしょう?まず、父親を避けます。もしこれができなければ、特に母親など、第3者がいることを確認します。怒りに直面した時には、子供は無言作戦をとったり、これがうまく行かない場合には、あらかじめ準備しておいた答えを使います。ふつうは誰か別の人のせいにする、という方法です。一方で父親は子供が自分の非を認めれば、自分はすでに許しているんだよということを言うことができるのに、と思っています。この父親の態度を「許しの父親のたとえ話」として多くの人に親しまれている「放蕩息子」(ルカ 15:1-3;11-32) に見ます。

2人兄弟の弟が父親に財産を要求してきました。このことは父親を侮辱しているだけでなく、深く心を傷つけました。相続は死んで初めて与えられるもので、自分はまだ生きているのですから。けれども、息子の自由を尊重しようとしていたので、父親は息子の要求に屈し、悲しくも家を出るという息子を行かせてしまうのです。

後にルカが「彼は我に返った」と書いているように、息子は父親のもとに帰る決心をします。財産も使い果たし、ブタの世話をする仕事をして生き延びていました。ユダヤ人にとってブタは不浄なものと考えられていましたので、その仕事をすることは、それ以上考えられないほど最悪の仕事でした。けれども空腹に耐えられず、他に選択の余地もありませんでした。 もうこれ以上自分のことを息子とは思わないで、ただの使用人だと思ってくれ、という短い言葉を父親に言います。それは自分のこれ以上ないほど悪い状況を思って、の言葉であって、自分の行為によって父親を傷つけたことを思っての言葉ではなく、立派なものではありません。

息子がいなくなっていた間中、父親は息子の帰りを待ちわびていました。たとえ息子が父親との関係を断っても、父親は息子との関係を断たないのです。 ある日「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」のです。息子は「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」としか言えませんでした。父親にとっては、それだけでもう十分すぎるくらいでした。息子が何を言うか、というのは二の次でした。父親は僕(しもべ)たちに急いでいちばん良い服を持って来て、指輪をはめさせ、履物を履かせるように言いました。良い服というのは、名誉の象徴、指輪は権威の象徴、そして履物は自由を象徴します。 それだけでなく、盛大な祝宴まで開いたのです。なぜでしょうか?後に父が「死んでいたのに生き返った」弟のうしろで怒っている兄に言います。

明らかにこのたとえでは、イエスは、罪の生活から神の暖かい愛に戻ってくることだけを待っていた神ご自身の父の慈しみのことを言っておられます。これは神の私たちに対する愛がいつどんなときにも変わらないからです。私たちに要求するのは、その愛に対する応えだけです。このようなことが起こるたびに、神は盛大な宴を開いてくれているのです。 さて、兄はこのような状況にどのように反応したでしょう?兄は畑から帰った時「音楽や踊りのざわめきを聞いて」僕(しもべ)にどういうことなのか尋ね、弟が帰ってきたことを知ります。これを聞いたとたん、兄は家に入り、宴の輪に入ることを拒みます。兄は弟が行ったことを許すことなど到底できませんでした。父は2度、外にいる兄に理解を求めます。兄が納得したかどうかについては、ルカは言っていません。

イエスは「話をきこうとしてイエスに近寄って来た」徴税人や罪人、そしていつも神を否定し、神にわなを仕掛けようとしている律法学者やファリサイ派の人たちの前でたとえ話しをされます。 ルカが言わんとしていることは明らかです。弟は徴税人の「神様、罪人の私を憐れんでください」 (ルカ 18:13)という祈りでも信仰が表われているように、そのような徴税人や罪人のようなものであると見なされることができます。

一方で、兄は罪人と行動を共にしていると、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とイエスを非難した、「正しい」律法学者やファリサイ派の人と何ら変わりはありません。 なぜでしょう? それは不品行を絶滅させることが神の努めであるとしていたからです。それだけでなく、彼らは自分達の良い行いで救いが有利になるとも信じていました。最後に兄が父親に言った台詞は兄のメッセージそのものでした。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」要するに、 兄は父親に、奴隷のように仕方なしに仕えたのであって、愛ゆえに仕えたのではなかったからです。愛されていないと誤解をして、父親と喜びを共にすることができるでしょうか?私たちは自分自身の中にこの2人の息子がいます。自分のために何もかも手に入れたい弟と、愛をもたずに義務だけを果たそうとし、その代償を他の人に払わせようとする兄のような自分です。しかしこの弟のように、「我に返って」恵みを祈ろうではありませんか。そして、神の許しをもって、私たちを待っておられる父のもとに帰ろうではありませんか。私たちはこのことを「和解の宣誓」(Sacrament of Reconciliation)を通じてできることです。私たちも父の家に帰ることができるように、この宣誓を、受難節の残された日々のうちに行おうではありませんか。

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