真実を隠すこと

Burke, Theresa (バーク・テレサ)
許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

涙が乾いた後、パティの淡褐色の瞳の下には、黒いマスカラが筋を作っていた。伏し目がちの顔には、悲しみの代わりに束の間の安堵感が奇妙に広がっていた。中絶から13年を経て初めて、パティはその苦しみを理解してくれる人に出会った。パティは、同じように心を痛めている男女が集まり、その経験を打ち明ける場所にようやくたどり着いた。言葉にできなかった苦しみを映し出すように、パティはその経験を話し始めた。

中絶さえすれば、すべてが終わり、私の人生も元通りになると思っていました。クリニックのスタッフも皆そう言っていたのに。でも、中絶することで、人生は全く別のものになってしまうことを今は知っています。
中絶によって、苦しみが終わることはありませんでした。むしろそこから苦しみが始まったのです。長い間、私は自分のことを頭がおかしいのだと思っていました。友人に自分の苦しみを打ち明けようとしても、彼らは非難めいた表情で頭を横に振るだけでした。そのことで私は孤独感と納得のいかない思いを募らせていきました。自分が狂ってしまうのではないかと感じることさえありました。

それ以前のパティは、中絶は「組織の塊」を取り除くことに過ぎないという俗説を信じていた。事実、クリニックには、中絶の痛みとリスクは、抜歯のそれと変わりないと言うカウンセラーさえいた。それが真実だとすると、パティのような感情を抱くのはおかしいということになる。

友人の誰一人としてパティの感情を当然のこととして受け入れてくれない事実が、さらにパティを「自分はおかしい」「不自然だ」という気持ちにさせた。友人たちの「非難めいた表情」を見て、彼女は、自分の「普通ではない」感情を心の奥深くに沈めなければと思うようになった。残念なことに、周りの人を安心させるために自分のネガティブな感情を押し隠すことで、彼女の苦悩はさらに尾を引くこととなった。

パティのような経験をする人はとても多い。中絶を希望する大半の女性は、自分がその後、深刻な心理的問題に直面する可能性を予測したり、理解したりしていない。中絶によって「時計の針を元に戻せる」という誤った期待をすることで、その後生じる問題に全く対応できなくなってしまう。

この誤った期待がもたらす悲劇が、ある女性から寄せられた「編集者への手紙」によく表れている:

私は怒りを感じています。グロリア・スタイネムと、中絶の経験があるのに、その苦痛を私に教えてくれなかったすべての女性に対して、怒りを禁じえないのです。女性たちの間には、罪の意識や、自己嫌悪、恐怖について互いに語らないという暗黙の申し合わせがあるのです。中絶することは、イボを切除したり、爪の手入れをしてもらったり、髪を切ってもらうことと同じではないのに、[特別なことではない]ように言う人は、嘘つき以下です。[1]

社会全体として、我々は中絶を理解せずに議論し、法律を制定している。中絶を道徳的、政治的問題として論ずる一方で、人生を変える経験とは考えていない。その点において、我々の社会は、中絶後の悲しみを予想もしていなければ、認めてもいない。

このことは、国全体の悲劇であり、本書における重要なコンセプトであることから、繰り返し述べておく。我々の社会は、中絶後の悲しみを予想もしていなければ、認めてもいない。

本章では、不用意な憶測、悪質な技術、そして中絶に関する政策が、中絶による精神的リスクはほとんどないという誤った認識をいかに増長しているかについて、簡単に説明する。次章では、中絶後に重大な感情的問題に直面した女性が、友人や家族、専門のセラピストのサポートを受けられず、無言で苦しみに耐えている理由について考察する。さらに、続く章では、私自身が治療した中絶後の問題を具体的に紹介し、この問題を、本人、家族、この国にとって非常に重要な問題とする理由を説明する。

「中絶が安全なことは誰でも知っている。」

中絶は、合法的な行為であることから、安全と思われている。事実、中絶は女性の「権利」として広く認識されている。この権利、あるいは特権は、望まない妊娠から女性を解放するものと考えられている。中絶は、女性たちに安堵を与えても、悲しみを与えるものではないはずなのだ。

実際、3人のうち1人以上は、中絶の直後に、悲しみ、喪失感、憂うつといった感情を持つが、中絶患者の大半は、安堵する。[2] これは、多くの女性が、中絶までに非常な緊張を感じているからである。彼らは、中絶そのものに対して神経質になっている。自分の選択が正しいのかどうか迷っているのかもしれないし、妊娠をその人生において問題と考える環境や人々からプレッシャーを受けているのかもしれない。

中絶の直後は、そうした時間が終わることで、緊張が解ける。すべては終わり、問題は片付いた。すべてを過去として水に流し、自分の人生をやり直すのだ。中絶直後は、大半の女性において、妊娠に伴う緊張と中絶の恐怖が、少なくとも一時的に遠ざかる。

しかし、中絶によってストレスが緩和されると同時に、新たなストレスの種が蒔かれることがある。後半の章で詳しく説明するが、中絶に対する割り切れない感情や記憶がプレッシャーの元になり、数年後に予想もしなかった形で爆発することも考えられる。

一部に、これは、中絶が女性の自己概念を構成する3つの柱、すなわち、性に対する認識、道徳性、母性の認識に触れるためと考えられる。また、子どもを失ったこと、あるいは少なくとも子どもを持つ機会を失ったことにも関係する。いずれの場合にも、この喪失感に立ち向かい、それに対処し、悲しむことで、女性がその経験を乗り越えていく必要がある。

中絶の前にこうした問題をすべて理解している女性はほとんどいない。それどころか、自分の将来が脅かされ、不確定に思えるこの時期に、女性は「その事態を終わらせよう」とするため、こうした問題を「棚上げにする」傾向がある。中絶直後の安堵感が、その後問題が表面化しないという保証にならないのは、このためである。割り切れない感情は、遅かれ早かれ無視できないものとなり、感情面や行動面での障害を伴う場合も多々ある。

この見解は、精神科医であり、産科医として20,000件以上の中絶を施行しているジュリアス・フォーゲル医師の観察結果からも裏付けられている。フォーゲル医師は、以前から中絶を擁護する一方で、次のようにも述べている:

年齢、背景、性に対する認識に関わらず、女性は皆、妊娠の中断によりトラウマを抱えることになります。人間性にも影響が及びます。その出来事は、彼女の人生の一部なのです。妊娠を中断することは、彼女自身を破壊することを意味します。中絶が何の影響も与えないということはあり得ないのです。中絶はいのちを絶つことなのです。そこにいのちがあることを認識しているかどうかは全く関係ないのです。何かが形成され、それが実際に起こっていることは否定できません。トラウマは無意識下に沈み、その女性の生涯を通じて表面に出てこないかもしれません。しかしそれは、中絶擁護派の人々が主張するように、罪のないこと、見過ごして良いことではないのです。精神的代償を払わなければなりません。疎外感を感じたり、人間としての温かい心を押しやり、おそらくは母性本能を閉ざすことになるかもしれません。妊娠を中断した女性の意識の深い部分では、何かが起こっています。精神科医である私にはそれがよくわかります。[3]

中絶を「たいした事ではない」と考える傾向は、(1)直後のネガティブな反応が一時的で一過性のものとして消失する、(2)ネガティブな感情の大半は遅れてやってくる、という理由から一般的に問題視されていない。

女性に中絶直後の気持ちを尋ねた家族や親しい人は、女性が安堵の表情を見せていることで、その事については、この先ずっと「大丈夫」と解釈するが、それは必ずしも事実ではない。一方、女性が気落ちしている場合、クリニックのスタッフだけでなく、家族や友人までも、それは一時的なことで、すぐに元気になると考えてその状況を見過ごしてしまう。実際、誰もがそう願っている。彼らは中絶によって「時計の針を元に戻すこと」ができ、女性は元通りの人生を送れると期待している。それを期待し、また、そうなることを信じたいがために、人々は、自分の期待通りだと納得できる理由をすぐに見つけようとする。

一般に、女性が一度「私は大丈夫」と言えば、最も親しい友人でさえ、彼女の気分を害したくないという気持ちから、中絶について繰り返し尋ねることはしない。彼女の心中にあるものにどう対処すればよいかわからないので、敢えてそれを知ろうとはしない。

次の章で説明するが、中絶後の女性が大丈夫であると近親者が確認してしまえば、その後、疑問や後悔の念を抱くようになっても、女性はそれを表に出しにくくなる。しばらくたってからネガティブな感情について相談しようとすれば、周りの人たちは不愉快になる。女性は、時にはっきりと、時に暗黙の了解として、「過去を振り返らないで、未来だけを見つめなさい」というメッセージを受ける。ヘレンの経験を紹介しよう:

中絶の後、私の体調を聞いてくれたのはボーイフレンドだけでした。彼は、クリニックの帰り道に、私に大丈夫かどうか聞きました。帰宅途中、私は胃のあたりに不快感を感じていました。泣きたかったけど、まるで感覚を失ったようでした。ボーイフレンドに大丈夫と答えると、彼は「さすがは僕のガールフレンドだ」と答え、私を送り届けると、ビリヤードに出かけました。私を一人ぼっちにした彼にとても腹が立ちました。私は一人になりたくなかったのに。後で私が泣けば、彼は中絶のことは忘れろと言ったでしょう。果たして私が泣くと、彼は私のことを「陰気な奴」と言い、自分の関心を引くために泣いていると言って私を責めたのです。私たちはその後まもなく別れ、中絶のことを知る人はいなくなりました。私は、中絶したことばかり考えていました。そうしたかったからではなく、その経験を忘れることができなかったのです。その時点で、私は悲しみを飲み込みました。強くならなければ、誰も私を必要としてくれないと思ったのです。

このように、中絶に対する社会的認識は、女性が中絶の直後に親しい人に対して「私は大丈夫。終わってほっとしたわ。もうそのことは話したくないの。」と言ったことに基づいている。残念なことに、女性の本心ではないこうした話が、「中絶はたいした事ではない」という社会の認識を強くする原因になっている。「ジュディは中絶したけど、たいしたことなかった。彼女は元気よ。」などと言う友人や親類たちも、中絶は大事ではないという考えを他の女性たちに伝える役割を果たしている。

しかし現実には、中絶はきわめて個人的で、複雑な体験である。多くの女性たちは、中絶に対する思いや記憶について、気楽に話すことはできない。妊娠や出産に関する話を、お茶を飲みながら熱心に披露し合う女性たちは、過去の中絶に対する気持ちや記憶については決して語ろうとしない。私の患者であるビバリーは、自分の苦しみを打ち明けられなかったことについて、日記に次のように記している:

私はこの事実を受け入れ、周囲にも元気な振りを続けてきた。でも時々、これ以上元気な振りを続けることはできないと思うことがある。傍目には元通りの生活を送っているように見えるかもしれないけど、内心はとても辛い。本当は一人で泣きたいと思っているのに、元気なふりをしていることで、ますます悲しくなってくる。でもいったん泣き出したら止まらなくなってしまうかもしれない。

シャロンの場合、回復室で深い喪失感に気づくと同時に、中絶を受けた女性との不思議なつながりを感じた。

中絶が終わると、私は「回復室」に移されました。私は、かつて共に妊娠していた女性の隣に座りました。喜んでいる人はいませんでした。重苦しい雰囲気が私たちを包んでいました。涙ながらに語り合い、私は妊娠12週であったことを打ち明けました。私の隣にいた女性が私を見て「そうだったのね」と言ったとき、私は強い衝撃を受けました。私の赤ちゃんは行ってしまった、永遠に。回復室から出るには、もう妊婦ではない新たな「患者」の間を通らなければなりませんでした。その中の一人と目が合い、目礼すると、彼女は身振りで返してくれました。私たちは何も言いませんでした。その必要はありませんでした。私たちは、望んでいなかったにしろ、そうするより他に方法がなくて同じ行動を取った悲しい仲間だったのです。前線で戦う勇敢な戦士のように、私たちに「選択肢」はなかったのです。

中絶の後、シャロンが身を置いた「自己否定婦人団体」では、中絶を受けた女性たちが、ただ理解しているということだけで互いを支えあっていた。そこでは、共感という姿勢だけが必要とされた。言葉、特にどちらかの女性が絶えられない苦痛をもたらすような「単語」を発するべきではなく、それは不適切で、時に危険なことでもあった。

一般的に、女性は妊娠について話す時のように、中絶について気楽に話すことはない。この社会的礼儀の唯一の例外は、中絶賛成派のフェミニストグループにおいて中絶経験が平然と語られるときだけである。しかしその場合でさえ、議論には厳しいルールがある。個人の経験を語るときは無関心を装わなければならない。疑問、悲しみ、あるいは罪の意識を長々と語ることは適切ではない。そのような会話は、非公式なグループセラピーに、お互いの過去の決断を裏付けるという目標を与えることになってしまうからだ。

中絶クリニックの偏見

中絶は精神的に重大な影響を与えないという期待は、多くの中絶クリニックによって強調されている。中絶カウンセラーの多くは、その期待に反する根拠を無視することで、中絶に対する心理的反応は珍しい、あるいはそんなものは存在しないと女性たちに教える。パティのケースのように、中絶は歯を抜くのと同じくらい痛みも危険もないというばかげた比較をするカウンセラーさえいる。

中絶後に問題を経験した女性252人を対象にした過去を振返ってみる調査において、66%の女性が、カウンセラーが中絶の選択に対して「偏った」意見を持っていたと述べている。カウンセリング前には決心がついていなかったとする女性が40%から60%いたことを考慮すると、これは重大な事実と言える。調査したすべての女性のうち、44%は、カウンセリングを通じて中絶以外の選択肢を見つけることに積極的だった。質問を勧められたのはわずか5%で、52%から71%は、自分たちの質問ははぐらかされた、矮小化された、あるいは十分に答えてもらえなかったと報告している。全体で、90%以上が、十分な情報が与えられず、情報に基づく決断ができなかったと述べている。83%の女性が、相談した中絶カウンセラーを含め、周囲から中絶を強く勧められなければ、別の選択をしたかもしれないと言っていることから、こうした情報の欠落が決断に特に影響していると考えられる。[4]

また、研究の結果、危機に面した人は、良い意味でも悪い意味でも第三者の影響を受けやすいことがわかっている。第三者、特に、危機から脱出する方法を提供してくれそうな権威者に頼ることは、高度な精神的依存性とされる。[5] 中絶を考えている女性は、その疑問を無視するように誘導する指示的なカウンセリングの影響を特に受けやすい。ウエンディもその犠牲者の一人である:

中絶前のグループカウンセリングで、私は中絶という選択をしたことに疑問を投げかけました。私は、自分は中絶したくないけど、ボーイフレンドはそれを望んでいると打ち明けました。私は自分ひとりで子どもを育てる余裕がないことに悩んでいました。カウンセラーはすぐに、それこそが私が中絶を希望した根拠だと言いました。彼女は、経済的余裕がないのに子どもを持つことは適切ではないとも言いました。彼女は、カウンセラーという立場から、どうすべきかを理解していたのだと思います。私は非常に感情的になっていました。自分で考えることにおびえていました。そして1週間後、私は中絶しましたが、もし私が子どもを産みたいと何度も言っていたら、彼女が果たしてそれを容認したかどうか疑問です。

別の患者、ミッシーは、子どもを持つことで人生が狂ってしまうという恐怖に支配されていた。彼女のカウンセラーは、中絶することで望まない人生を送ることになるとは一言も言わなかった。

中絶する前、カウンセラーは、私が自分の行動について不安になっていることを分かっていました。彼女が私に、赤ん坊を元に戻すことはできないし、子どもがいたら以前のような生活はできなくなると言ったとき、私はその場から立ち去ろうと思っていました。彼女の言葉は、妊娠を中止するという私の決断を正当化しようとしているように聞こえました。でも、中絶前のそうした重要な時のことを振り返ってみると、どうしてその場を立ち去らなかったのかという疑問ばかりが残ります。妊娠について肯定的な意見を言ってくれる人がいたら、別の選択肢を考えたかもしれません。でも、そんなサポートはありませんでした。誰もが中絶することが最善策だと言っていましたから。

カウンセリングにおいて中絶カウンセラーが彼らの偏見を押し付けたり、女性自身の道徳や母性としての不安を無視して中絶を「最善策」として「売りつけよう」とする場合、結果は悲劇的なものになる。ミッシェルは、日記に次のように記している:

カウンセラーは、2、3ヶ月すれば、気分が落ち着くと言った。もう2年経ったのに、状況はちっとも良くなっていない。このままだと気が変になりそう。こんなひどい状態は初めて。生きていくことがとても辛い。正しい選択をしたと思っていたけれど、こんなに心が痛むのだから、私の選択は間違っていたのかもしれない。こんな痛みには耐えられない。もう終わりにしたい。こんなに辛い状況になることを誰も教えてくれなかった。だれもが中絶が最善策だと言った。私は元気になるとも言ってくれた。でも私は元気じゃない!私の人生は、決して元通りにはならない。罪悪感、恥ずかしさ、何の価値もないという感覚、満たされることのない空虚感に支配された人生。この苦しみにはもう耐えられない。また自殺を考えた。自殺を考えるなんて恐ろしいことだけど、この痛みを終わらせるには他に方法がないと思う。

ミッシェルの日記には、彼女の苦痛、後悔、悲しみの深さが正直に語られている。彼女は、そうしたネガティブな気持ちに襲われるとは全く予想していなかった。幸運なことに、カウンセリングと悲嘆のいやし作業によって、ミッシェル、ウェンディ、ミッシーは、否定的な考えや自責の念から立ち直ることができた。

中絶クリニックで行われた調査では、中絶を考えている女性の大半が、中絶処置、そのリスクならびに胎児の発達についてほとんど、あるいはまったく知識を持っていないことがわかっている。[6] ナディーンのように、多くの女性にとって、クリニックで受けるカウンセリングだけが彼らにとって唯一の情報なのである。

私の認識は甘かった。中絶の本当の意味を全くわかっていなかった。カウンセラーたちは、中絶がいかに安全で、容易で、単純な処置かを話すだけでした。中絶すれば問題は解決し、元の自分に戻って望む人生を送ることができると約束してくれました。彼女は、「あなたが私の娘でも同じことを言うわ。それが一番いいのよ。」とさえ言ったのです。
皆が私に、心配することはない、怖がることはないと言ってくれました。私が受けたカウンセリングは、こんな風でした:ええ、あなたなら大丈夫;安全よ;心配しないで、何の問題も起こらないから。
私は、24年間もこの経験に苦しめられてきました。中絶によって私の人生は憂うつと不安の落とし穴に陥ったのです。

中絶クリニックのカウンセラーは、実際にはその反対の証言が圧倒的に多いにもかかわらず、中絶による精神的リスクはほとんどなく、あったとしてもごくわずかだという誤った認識に誘導する傾向がある。その理由は、個人の見解や彼らが教育を受けたクリニックによって異なる。

一部の中絶カウンセラーは、経済的な理由から中絶を勧める。彼らは、中絶を売る「仕事」をしているのだ。[7] また、保護の観点から中絶が問題のある妊娠にとって最良の策と信じ、女性に「正しい」選択をさせることを彼らの義務と考えるカウンセラーもいる。[8] あるいは、別のカウンセラーは、かつて自分がそうしたように、他の女性が中絶を選択することで、自分たちを今も苦しめている選択が正しかったと確認しようとして、中絶を勧める。[9] こうしたカウンセラーたちは、患者を叱咤激励しながら、自身をも懸命に説得しようとしているのである。

私の患者の一人であるリタは、中絶クリニックで4年間カウンセラーとして働いた後、やっとの思いで自分自身の中絶と向き合う勇気を得ることができた。

私は、女性たちに中絶を勧めることに一生懸命になっていました。中絶を安全で合法的な行為と確信していたのです。自分が妊娠して子どもを望むまで、私のカウンセリングがいかに一方的で押し付けがましいものだったか考えてもみませんでした。私の周囲の人は、私の妊娠に対して批判的でした。そのとき私は、私自身がクリニックを訪れた妊婦たちに対して同じことをしていたのだと気づいたのです。まるで彼女たちを中絶させることで、自分自身の中絶に対する罪悪感をぬぐおうとするように。私は自分の行為を正当化することに必死で、自分がいかに悲しんでいたかに気づいていませんでした。

一番気がかりなことは、一部の中絶提供者が中絶を社会事業のツールとして考えていることです。生活保護受給者の削減、「不適切な事」の排除、あるいは人口過多の防止など、理由にかかわらず、彼らは、中絶を「より良き選択」へのステップとして見ているのです。社会事業のエリートたちにとって、誤った情報、欺瞞、そして中絶を選択した男女が持つ「小さな」罪悪感は、「より良き選択」を実現する上での小さな犠牲でしかないのです。[10]

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