母親の証言

Brown, Mary (ブラウン・メアリー)
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私たちの生活の中には、とても意味深く、記憶から消えない瞬間があります。私のそのような瞬間を皆さんと分かち合いたいと思います。

それは1974年1月1日の午後3時36分のことでした。

その妊娠は短く難しいものでした。赤ちゃんを早産しなければなりませんでした。そうしなければ、私たち二人とも死ぬことになり、選択肢はありませんでした。彼女はわずか懐胎期間が24週間(5ヶ月半)でした。

「赤ちゃんが生きるチャンスはゼロです。生きて産まれることはないでしょう」とお医者さんは私と夫に言いました。しかし、彼女は、手足を蹴ったり打ったりし続けて、私は彼女を感じることができました。まるで、「嫌だ!嫌だ!私は死にたくない!」とでも言っているかのようでした。

産まれた瞬間、部屋の中の全ての視線は彼女の小さな身体に集まりました。お医者さんは、私がかつて見たことのない程小さな赤ちゃんを手の平で持ち、驚いた面もちで見下ろしていました。そのとき、赤ちゃんはまだ手足を蹴ったり打ったりし続けていたのです。彼女は他のこともしていました。力の限り泣いていたのです。産まれたばかりの赤ちゃんが皆するように泣きわめいていたのですが、私たちにはほとんどその声は聞こえませんでした。彼女の声帯はまだ完全に発達しておらず、彼女の叫びは小さな、きいきい声だったのです。

「彼女が生きるチャンスはとても少ないし、もし生きたとしても、恐らく盲目、或いはもっと重い身体的且つ精神的な障害を持つことになるでしょう。」と言って、ステンレスの鉄の容器を、そして次に私たちを見ました。「彼女を助けてみたいですか、それとも処分したいですか。」私たちは同時に答えました。「彼女を助けて!」看護婦はほっと安堵のため息をつき、小さな赤ちゃんを急いで毛布にくるみ、保育器に入れるため育児室へとすぐに運びました。

おなかの赤ちゃんがどのようなものか、誤解が沢山あります。社会の中絶容認の考えにも関わらず、私はそのことをあまり考えたことがありませんでした。私の生活に影響を与えるものではなかったからです。しかし、娘の誕生を経験して、私は中絶論争を考えるようになりました。それを分かち合いたいと思います。

妊娠中期の胎児が痛みを感じることができると知っていましたか。彼らが実際に泣くということを知っていましたか。5ヶ月半で生まれた娘は出産時に泣きました。彼女は痛みと苦悩の中におり、表現できる唯一の方法で表していました。それは泣くことでした。

娘はあまりにも小さすぎたため、出産したばかりの赤ちゃんを区別するための手首のブレスレットは一番小さなサイズに縮められました。それでもまだまだブレスレットは大きすぎました。だから足首につけることにしました。彼女はそれを蹴ってはずしてばかりいたのです。

小さい娘は、一番小さい哺乳瓶でも授乳出来なかったので、彼女の喉から胃までチューブが挿入されました。処方はグラム単位で量られました。一回の食料はティースプーンの半分に相当しました。

私は彼女の保育器の前に立ち、自分の力のなさを感じていました。そして、中絶に関して考え始めました。娘の顔立ちは完璧に形作られていたのです。手の爪や足の爪、目、鼻、そして口もありました。娘はわずか24週目のあかちゃんで、毎年彼女のような赤ちゃんが堕胎されていることを考えたら、胃の中が気持ち悪くなってしまいました。

看護婦が私を元気づけるために近づいてきました。「お嬢ちゃんは戦っていますよ」と言いました。「彼女はやり遂げるでしょう。生きたいのですよ。」実に思いがけないことでした。胎児に生きる意志があると考えたことがありますか。あの小さな赤ちゃんが、毎回息をする努力をするたび、大切な生命に一生懸命すがりつこうとしていたのです。生きるために戦っていたのです。

私は図書館で早産の赤ちゃんに関する本を何冊か借りてきました。娘が戦いに勝つために、私にも何かできることがあるはずだと思ったのです。私は1940年代の調査を見つけました。その調査は、ひどく早産の赤ちゃんをあまりにもろいことを理由に、人間との触れ合いから遠ざけた方がよいのか、或いは感染などのリスクを覚悟で触れ合った方がよいのかを調べたものでした。結果はどうだったと思いますか。人間との触れ合いがない赤ちゃんはみんな亡くなったのです。人との交流があった赤ちゃんは、20%の生存率でした。

次の日、私はお医者さんが来るのが待ち遠しくて仕方ありませんでした。私が見つけたものを説明し、彼女も同意してくれました。看護婦は私に保育器の前に立つ前に、自分の洗い方を教えてくれ、マスクとスモックを着て、私は赤ちゃんの保育器の横に座り、中に手を伸ばして、娘の顔をなでたり、手を握ったり、話しかけたりしました。私は娘を抱くことができなくても、できる限り一緒の時間を過ごしました。胎児という言葉を耳にするとき、あなたはそれが愛情や人間の養育に応えるものだと考えるでしょうか。

私たちは娘をジェシカと名付けました。後でこの名前が「神の恵み」という意味を持つことを知りました。とてもぴったりの名前です。ジェシカは私たちに胎児が痛みを感じることを教えてくれました。彼らは泣くのです。他の全ての人間のように、彼らも独特の個人であり、それぞれ独自の個性を持っているのです。ジェシカは私たちに胎児が生きる意志を持っていることを教えてくれました。彼らは生きるために戦うのです。彼らは死にたくないのです。私やあなたのように、彼らは生きたいのです。そして、ジェシカは私たちに胎児が人間の接触や愛情に応えるということを教えてくれました。このことに関しては疑問の余地がありません。養育することで、彼らは育つのです。

ジェシカがどうなったかですか。1974年1月1日に彼女は予定より3ヶ月半早く、この世に驚くべき誕生を遂げたのです。

そして、この5月、彼女はニュー・ロンドン、CTにある、学術、運動、そしてリーダーシップの方式に基づいて志願者のわずか5%しか受け入れない大学である、米国沿岸警備隊学校(the U.S. Coast Guard Academy)を卒業しました。医者の予想は当たりませんでした。彼の言うことを聞き、彼を信じて、障害をおそれ、娘を処分したときのことを想像できますか。私には想像できません。医者は間違っていたのです。

クリントン大統領はジェシカに卒業証書と任命書を手渡しました。今度「パーシャル・バース・アボーション」法案が彼の元に提出されたとき、胎児が本当はどのような存在であるのか、ちゃんと考えてくれることを願います。彼女は人間なのです。

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