貞潔
飢えた世代への良き知らせ

Bonacci, Mary Beth (ボナキー・メアリー・ベス)
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10代の頃、私は「ちゃんとしたカトリックの女の子」でした。そして全てのちゃんとしたカトリックの女の子と同じように、私は性行為をすることは控えていました。控えていた理由は単純で、妊娠したくなかったからと地獄に行きたくなかったからでした。

両方とももっともな理由でしょう。たとえそうであっても、私は自分が貞潔の美徳を実行していたとは思えません。私はその言葉を聞いたことさえないと思うのです。私にとっては、セックスを控えることは前向きなことというよりはむしろ否定的なことから逃れるひとつの手段だったのでした。

そのような態度は、サンフランシスコ大学の4年生になるまで変わることがありませんでした。その大学の聖イグナチウス研究所の後援で、貞潔に関する4回のシリーズの講演が行なわれました。講師の先生方は禁欲について話されませんでした。彼らは10代の妊娠のことも性病のことも話しませんでした。彼らは貞潔の美徳について話し、貞潔、つまり人間の性というすばらしい贈り物を本当に尊重することは、本当の愛を見つけ愛のある生き方をすることに関わるものだということを教えてくれました。

私の世代の人々を見回した時、深刻な愛の欠如を理解するのに特別な才能は必要ありませんでした。私の周囲で起こっている相手を選ばないセックスの大部分の原因となっていた、そして今も原因となっているのは、愛の必要性、愛への渇望でした。もちろんそのような性行為が助けになることはありませんでした。それはただ、より多くの問題と、より多くの破綻につながっているだけでした。貞潔はその問題の一部ではなく、その問題の解決方法だったのでした。

そのことがわかって、私の人生は変わりました。私はその話題について話し、人々に貞潔とは愛に関わるものだと教えようと決心しました。1985年では、そのことは本当に新しい考え方でした。明らかに、それは世界が聞く必要のあるメッセージでした。15年後私はまだそれに取組んでいます。

どうして貞潔は愛に関わるものなのでしょうか。そのことを理解するためには、私たちは愛とは何かを理解する必要がありますが、それは今日では簡単なことではありません。愛は「感情」のみと結びつけて考えられるようになっていますが、そのことはもちろんばかげたことです。愛とは感情以上のものなのです。愛とは、決心であり、意志の行為なのです。それは一人一人を神に似せて創られ、神に愛されているものとして見ること、そしてそれに従って一人一人にかかわることを意味しています。愛は相手の最高の状態を望むことを意味しています。

人間の性の営みの言葉

それでは、セックスは愛とどのような関係があるのでしょうか。セックスとは愛の表現なのです。しかしそれは特定の種類の愛の表現ではありません。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、セックスは自分を捧げることを表現するものだと言っておられます。私たちの身体で行なうことを、私たちは自分自身を使って行なうのです。自分の身体をお互いに与え合うとき、男女は自分自身をお互いに与え合うのです。それは結婚の秘跡を新たにすることです。そして愛のこの行為を通して、神は最も創造的な行為、つまりこの世に新しいいのちをもたらすことを実行されるのです。男女が結ばれ、お互いを与える愛は永遠の魂を持った神の似姿となるのです。愛はいのちに通じるのです。

セックスは悪いものではありません。それは良いものです。それには道理があり意味があるのです。セックスは言葉、永遠の言葉を話します。それにまつわる全てのものは永遠の絆の方を目指すものです。自分を捧げることは永遠のことです。新しいいのちは永遠のものです。私たちの身体は性行為をするときホルモンを作りさえするのです。この「絆ホルモン」は、二人の人間に強く、永続する愛情をもたらします。この絆は結婚した人々が結婚生活を続けることに役立つのです。

貞潔とは簡単なことです。それは私たちに人間の性の営みという信じられない力強い贈り物を尊重させてくれる美徳なのです。

だからセックスは結婚した人々にとって素晴らしいものなのです。それは二人を結びつけ、二人に子どもを与えてくれるのです。しかしそれだけではまだもっと重要な問いに答えることは出来ません。つまり「貞潔、とくに結婚のためにセックスをとっておくことが、愛を見つけ愛ある人生を送ることとどのような関係があるのですか。」という問いです。

貞潔でないことは愛していないことである

結婚において、性交は愛の表現であり、またそうあるべきものです。しかし未婚の人々はどうでしょうか。そのような人々にとってもセックスは愛ある行為ではないのでしょうか。

愛は相手の最良の状態を望むことです。しかし結婚という状況外でセックスで愛を表現することは相手にとって最良のことではありません。それは相手を、肉体的にも情緒的にも精神的にも危険にさらすことなのです。そうすることは「体という表現手段」を偽って使っていることなのです。それは人間の性という贈り物を乱用しているのです。それは愛の行為ではないのです。

貞潔とは、一番大切な人を愛することのできる自由なのです。独身の人にとっては、貞潔は、妊娠や性病を心配することなく何年もつきあうことができる自由なのです。性的に利用されることもない自由なのです。それによっていちばん良い配偶者を選ぶことができる自由なのです。

神からの贈り物に対しては自制心が不可欠です。

貞潔の利点はただロマンチックな愛を発見する以上のことなのです。貞潔に必要な自制心を育てることには、どのような状況においても相手を愛することができることが必要です。

セックスによる愛の表現は自分を捧げることを意味します。それは自分を完全に相手に捧げることです。しかし、性的な衝動がコントロールできないなら、どうしてその贈り物を自由に与えることができるでしょうか。それはもはや贈り物ではなく、全く意味のない抵抗不可能な衝動となるのです。

他のあらゆる人間の持つ衝動と同じように性的な衝動は神によって創られたものです。それは良いものです。しかし、愛する決定を下し、その衝動をコントロールするのは私たちの意志なのです。

「衝動をコントロールすること」は、人間の性の営みということになると、確かに「言うは易し行なうは難し」のことです。その衝動は強い、非常に強いものです。しかしそのような衝動をコントロールできるまでは、私たちは自らを愛情に満ちた人間と呼ぶことはできません。

貞潔を教えること

「貞潔」という言葉は、過去数世代においてはひどい批判を受けてきました。その言葉は良くても禁欲程度、悪ければ、セックスは何か悪いもの、汚いもの、邪悪なものであるという一種の新マニ教的な考えと結びつけて考えられるようになったのです。私が話しかけた10代の人々の多くは、貞潔という言葉を聞いたことさえなかったのです。

もちろん、今日貞潔という言葉を理解できる人がほとんどいないことは驚くにあたりません。あなたがこの美徳に関する文献を前回見たのはいつでしょうか。あなたが宗教関係のサークルで活動していないなら、答えは多分「一度もありません」でしょう。私の活動において、私の演説を補足してくれるような良い資料がないことに私はとても欲求不満を感じてきました。現在手に入る文献の多くは1940年代に書かれたものです。これらの文献は考え方としてはいいのですが、言葉や構想や提示の仕方が、若者にはほとんど影響を与えられないほど絶望的に古くさいのです。

貞潔を新しい世代に関係のあるものにする

貞潔の美徳を説明し、それを支持するような良い魅力的な資料を提供すべき時です。資料は教会の教えと、特にローマ法王ヨハネ・パウロ二世の肉体に関する神学論に基づくべきです。

そのような資料に対する需要は大きいのです。私がラジオやテレビに出るたびに、手紙や電話が殺到します。社会的な影響で、数世代もの人々が貞潔を本当に理解できていないのです。そしてそのことが痛切に感じられていることは、私にははっきりとわかります。情報や、長年はぐらかされてきた問いに対する答えが大いに求められているのです。

そのような声はもちろん驚くべきことではありません。貞潔とは愛に関すること、本当の正直な愛を見つけ、そのような生き方をすることに関することなのです。私が目にするそのような要望は、自然な生れながらの愛を求める要望の一部なのです。尊敬と自制がなければ、本当の愛はありえないのです。

セックスがはびこって、愛のほとんどない社会において、貞潔は本当に素晴らしい知らせなのです。

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