良心の問題

Dr. ジョーン・ビリングズ
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

 私は神経科の医者をずっとしています。何年か前に、避妊薬を飲み始めてから重症の偏頭痛の発作が周期的に起きるようになったある女性から相談を受けましたが、そのような発作は決してまれなことではありませでした。避妊薬を飲むことをやめなければ症状が良くなる見込みはほとんどないと彼女に説明すると、彼女は「でも私は、その薬を避妊のために飲んでいたのではありません。」と説明しました。彼女は、薬の副作用はすべて罪悪感や、神が復讐しているからとか、自分たちには関係のない他の理由から起こるものだと思っていたのかもしれません。重要な点は、彼女が問違っていたということ、つまり、我々の行為によって生じる個人的な結果は、我々の意志によってのみ決まるのだと彼女が信じていたことが間違いだったということです。そうではなくて、結果は、主として、行為そのものの性質に依るのです。

 50年間内科医として医療に携わってきた結果、人の行動に対して大いに洞察を深めることができました。それによって、非常に多くの人間にはすぐにそれとわかるような驚くべき善良さがあることがわかり、そのことで他の人にも、すぐにそれだとはっきりとわからなくてもそれと同様の善良さがあることを理解できるようになりました。同時に、趣味で始めたことが思いがけず成功してから、自然な家族計画法に関わって42年になります。自然な家族計画法を教え、計画的に妊娠しなければならない必要性を含む、様々な問題を抱えた夫婦にカウンセリングをするのは、親密で排他的な関係へ一時的に立ち入ることのできる特権を意味するものでした。このことによって、私は、異文化の人々や、異教徒あるいは全く宗教を持たない人々や、非常に貧しい経済状態で暮らしている読み書きのできない人々の家庭生活の現状を知る機会を得ましたが、そのたびに彼らの行為は天にいる慈愛に満ちた神に知られていることを常に思い出しました。いたる所で産児制限医療、特に、いわゆる「第3世界」で豊かな国によって資金援助がされ管理された計画、具体的には避妊、不妊手術、中絶から成る「産児制限セット」が実施されているのを研究する機会がたくさんありました。

 初期の頃、自然な家族計画法とは、周期避妊法(いわゆるオギノ式)のことでしたが、すぐそれには限界があることがわかりました。それと同時に、助けを求めてきた夫婦の中には、周期避妊法を拒否して、他の避妊法や不妊手術に頼る夫婦が少数ですがいました。これらの夫婦の大半は、どちらか一方、あるいは両方が、結婚生活に避妊や不妊手術を持ち込んで2、3ヵ月以内に不貞をはたらいたために、しばらくして自然な家族計画法へ戻ってきました。このことは、自然な家族計画法と性行為をゆがめ生殖能力を抑圧したり破壊したりする方法や特に中絶との間には、結婚に与える影響の点で、根本的な相違があるという事実を深く理解することになりました。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、『家庭一愛といのちのきずな』の中で次のように述べています。「多くの夫婦の経験やもろもろの人間科学によって提供された資料に照らして、避妊と周期のリズムを利用することの『人間学的・倫理的相違』を神学的にとらえ、その考察を深めなければなりません。この相違は一般に考えられているよりもずっと大きく深いものです。すなわち最終的な結論として、人格と性に関する調和することのできない2つの考え方があるのです。」(家庭一愛といのちのきずな:第32章)

夫婦関係

 そのような初期の頃人々の知識が増すにつれて、自然な方法を用いれば夫婦間の愛情が強くなる傾向が大なのに対して、産児制限セットの技術のすべてが不調和と別離を生み、多くの場合、結婚の破綻をもたらしていることが明白になりました。人間という有機体全体の中の生命に関わる価値のつけようがないほど重要な部分である生殖能力が、夫婦がお互いに与える贈り物から取り除かれたり受け取るのを拒絶されたりする場合、夫婦がお互いに与える贈り物の総和が非常に減ってしまうということがわかれば、なぜそうなるかという理由に気づくことは難しいことではありません。

 そのような状況であったので、回勅「フマネ・ヴィテ」が出されるよりずっと前に、カトリックの教会が避妊や不妊手術や中絶に関する伝統的な教えを変えることは考えられないことだとすでに思われていたのです。人の神学的認識は、各個人の認識の域を出ないものなので、各個人はもちろん将来自分の信仰心の説明をしなければならないと認めることは依然として分別のあることでした。人はまた、(マタイによる福音書 一六:18〜19)の、ビリポ・カイザリアでイエスがペテロに言った約束も思い出して、「教会の教導職」の教えを喜んで受け入れました。

 教皇パウロ6世が決意を表明したとき、人工的な産児制限の影響を熟慮せよという、高潔な人への教皇の指令を読んでも驚くべきことは何もありませんでした。「フマネ・ヴィテ」第17章には次のように書かれています。「そこで、まず考えなければならないことは、これによって、いかに広く安易な道が、夫婦間の不忠実と道徳の全般的低下に向かって開かれるかということであります。人間の弱さを知るために、また、とくに欲望にとらわれやすい年若い人びとが倫理の法を守るように鼓舞される必要のあることと、決してこの法の侵犯に安易な道を開いてはならないことを理解するためには長い経験を要しません。」将来を予言して教皇は「さらにこのことが、倫理の法のおきてに少しも関心を示さない国家権力に対して、どれほど危険な権限を与えることになるかについてもよく考えてみる必要があります。家庭のある問題を解決するために夫婦に許されることを、政府が国家全体の問題解決のために適用したとしてもだれがそれを非難することができるでしょうか。国家権力が、ひじょうに効果的と判断した避妊手段を国民の間に奨励し、だれがそれを阻止することができるでしょうか。」と書いています。(フマネ・ヴィテ:第17章)    避妊用ピルは、1960年代初めに使用され始め、販売のための徹底した宣伝によって奨励されましたが、それに多くの医者や残念ながら多くの神学者がだまされました。望み通りの結果を出すために、正常に機能している生体の働きを抑えることになるような薬を健康な人に投与することは、健全な医学の原理に反するものだということを医者は認識できず、また人間の身体の中で他に影響を与えずに効く薬などないという薬理学の原理をも忘れてしまったのです。「教会の教導職」の教えに異議をとなえるようになった神学者の中には、避妊産業に携わる人々の甘言にだまされて、彼らの科学的な洞察に対する非現実的な評価を信じたり、避妊薬は自然をまねたものだという根拠のない話を受け入れたりした人もいます。次いで避妊が広く受け入れられ、そのことが社会全体の不道徳、夫婦の不貞、離婚、片親だけの家族、性感染症の感染率の増加、そして性的倒錯の奨励に特徴づけられる性革命へとつながっていき、避妊は本質的に悪であり、それゆえ、個人や社会に損害を与え、客観的には神に対する罪であるということが証明されたのです。  避妊と性的倒錯を容認することの関連は、もし男女の性的関係から生殖能力を奪うことが合法的なら、本来子どもができない同性愛者の行為を非難することが困難になるということを思い出せば、はっきりします。

 すぐにはわからなくても、よく考えてみれば、避妊がこのような混乱の主要な原因であるという事実は当然明白なものになるでしょう。避妊という言葉そのものの意味は「妊娠に反対の」ということ、つまり、子ども反対ということなのです。それによって、子どものことを考えなくなり、したがって子どもを受け入れなくなります。そして避妊法がうまくいかなかった場合、子どもが人工妊娠中絶で殺されるのが一般的です。避妊用ピルの導入後まもなく、多くの政府が、「失敗した避妊のための中絶」を提供する法律を制定するようになりました。対照的に、自然な方法を利用している夫婦は自分自身の行動に責任を持ち、避妊法に責任を転嫁したりはしません。たとえば避妊は客観的に悪であるという真実の受け入れを拒絶することは、受精の瞬間に新しい人間のいのち、つまり新しい人間が生まれるということを否定することを含めたさらなる虚構へとつながっていきます。そしてこの虚構は中絶を受けることにまつわる罪悪感を減らすのに好都合で、このように良心を黙らせることは、人間の行動の他の領域にも波及するのです。受精の可能性が完全に除去されたという思いを伴った性的満足感によって引き起こされる自己中心主義が、自由という架空の概念を創り出します。真実から目がそらされ、意志が弱くなり、結婚における性的関係の一心同体という要素が損なわれ、愛そのものが傷ついてしまいます。教皇ヨハネ・パウロ2世が回勅「いのちの福音」の中で指摘しているように、「自由が伝統と権威のあらゆる形態から脱しようとして、個人の生活と社会生活の基礎である客観的で普遍的な真理のもっとも明白な根拠さえも締め出すとき、人間にとって善悪に関する真実は、もはや、自分が行う選択の唯一、確かな判断材料ではなくなり、主観的で変わりやすい意見、あるいは自分の利得と気まぐれに左右されるだけということになります。」(いのちの福音:第19章)

 その前に出された回勅「真理の輝き」に触れながら、教皇は次のように述べています。「人間にとって、自分の良心に逆らわずに生きることは自分の本質の法に逆らわずに生きることです。反対に、この法に従って生きることは良心、明らかに、真実の正しい良心、つまり、神によって人間性の中に書き込まれた法の内容を正しく解釈している良心に従って生きることです。」(お告げの祈り、1994年6月12日)人間社会における現在の『死の文化』は、『カトリック教会のカテキズム:675』の中で「多くの信者の信仰心を揺るがすであろう最後の審判」と書かれ、さらには福音の中で「多くの人の愛が冷えるであろう」(マテオによる福音書 二四:12)と書かれているところの、人間が受けなければならない最後の審判をおそらく暗示しているものなのでしょう。他の人間をあやまちに導く無秩序な行動様式、つまり醜聞の原因となる行動様式、「人を悪に導く考え方や行動」(カトリック教会のカテキズム:2284)の影響もまた強調する必要があります。

パストラルの助言

 しばしば間違った同情の結果として、自然な家族計画法の指導を促進することを嫌がる司教がいたり、多くの司祭がそうであることは残念なことです。現代的で科学的な自然な家族計画法でさえ、妊娠を遅れさすために使用するには信頼できるものでないと考えていますが、その意見は正しい情報が不足していることを証明するものです。他に自然な方法は難しすぎるのではと心配する司祭もいますが、それはまちがった判断であり、そのことは、それがおそらく間違った考えを持っている人たちからの間違った忠告を受けていることを示しているのでしょう。

 ときには、夫婦関係を妨害するものの存在によって自然な方法が成功する見込みがなくなってしまうという考え方がありますが、それは実際には真実とは逆のことです。夫婦間に不和の間題があるとすれば、それこそが結婚に自然な方法を取り入れることを指示しているものなのです。子どもを産む間隔をあける必要性と関連のある自分勝手やアルコール依存症のような問題は、大きな不幸を引き起こしたり、家庭を崩壊させたりするのではないかという強迫観念を生み出します。それは、すべての要素において自然な家族計画法なら克服できても、避妊や直接の不妊手術では決して克服することができそうにない強迫観念なのです。さらなる妊娠を防ぐために行なわれる外科的な不妊手術は、男性であっても女性であってもその人の価値を下げるものです。それはペットや家畜用の獣医が行なう手術であり、人間用の手術ではないのです。生殖能力を破壊するために外科的な不妊手術を受けた人間は誰でも、それによって零落してしまい、性的虐待、今までに受けたよりももっと大きな性的虐待の犠牲者になってしまうかもしれません。一番の問題は妊娠を避けることだと信じることは重大な間違いです。なぜなら妊娠を避けるという問題は、どんな場合であっても、自然な家族計画法が解決してくれるからです。脅威となる悲劇はこの家族の崩壊であり、それは良心とそして、何よりも子どもに計り知れない苦しみを与えるのです。危機は自然な家族計画法を指導してくれる人の優しく思いやりのある忠告にバックアップされたその方法の癒し力によって克服することができるのです。避妊や不妊手術をすれば、それらが夫婦と夫婦の関係に与える有害な影響の結果として、おそらく別居や離婚が避けられないものになるでしょう。これまで次々に述べてきたことの一つ一つは、世界の様々な国の様々な社会で、私の個人的な経験の中で観察されたことです。

 宗教上の禁欲主義者が、現代の自然な家族計画法の大したことのない自制でさえ、いくらかの人たちにとっては難しすぎると述べたり思ったりするのは非常に愚かなことです。難しい時もあるかもしれませんが、難しすぎることはめったにありませんし、決して不可能なことではないのです。特にカトリック教徒は教皇パウロ6世のお言葉で勇気づけられるでしょう。「したがって、夫婦は、信仰と希望一一その希望は『私たちを欺かない、なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に神の愛が注がれたからであります』一一によって力づけられ、自分に与えられた労苦を快く受けとめてゆかねばなりません。つぎに、熱心な祈りによって神の助けを乞い求め、またとくに聖体のつきない泉から恩寵と愛を汲みとらなければなりません。それでも、罪にとらえられる場合には、落胆することなく、告解の秘跡において豊かに与えられる神のあわれみ、謙虚にまた忍耐強くよりすがらなければなりません。」(フマネ・ヴィテ:第25章)

 妊娠の発生を抑え、ひいては中絶の需要を減らすことになると信じて、青少年に避妊薬や避妊具を配ることを正当化するために、「2つの悪のうちの少ない方を選ぶ」ことは妥当なことだと主張されるかもしれません。より大きな悪を防ぐために小さいほうの悪に目をつぶる必要がときにはあるかもしれませんが、どんな種類であっても悪を選ぶことはもちろん決して合法的なことではないのです。しかしながら、若者に避妊薬や避妊具を配布することが中絶の発生を減らすことになるというのは神話です。1984年にメキシコ市で開かれた「国連人口会議」に出席した代表者によって認められたように、その反対のことが真実なのです。世界中で行われている避妊薬や避妊具の配布が、乱交や無責任な性行動を奨励してしまう結果となり、実際には中絶の数を増加させてしまったことを彼らは認めました。同じく、人口増加に関する途方もない宣伝にだまされるのも愚かなことです。なぜなら、それはしばしば子ども嫌いの考え方のもうひとつの例だからです。ある地域で、人口統計上の人口増加に対するどのような抑制策が必要だと言われても、同じような結果は自然家族計画の適切な計画によって達成することができるのです。自然な家族計画法を教える人は、赤ん坊を恐がっていないのです。

良心

 良心が最も大切だというのはカトリック教会の教えではありません。教会が教えることは、真理が最も大切だということです。聖トマス・アクイナスの教えのとおり、人は、正しく形成された良心の命令を罪悪感を感ぜずに受け入れることができますが、良心が間違っていてもそうせざるを得ないということも真実です。カトリック教徒は、教会の正式の教えを注意深く敬度な気持ちで研究できたとき、良心というものを正しく形成することができるでしょう。もし良心によって、教会の教えに背くように命令されていると感じるのであれば、その人は「良い良心」を持っているかもしれませんが、「正しい良心」を持っていないことは確実です。その人の間違った良心によって、自分や他の人が有害な結果を被るかもしれない悪事の1つあるいは複数の悪事を働くことになったのです。

 教皇パウロ6世が述べているように、「人のいのちを守るには、人の存在のまさにその源から始めなければなりません。」この言葉は、1968年の「フマネ・ヴィテ」が出される以前の、1967年の回勅「ポブロールム・プログレシオー一諸民族の進歩推進について」の発表直後に述べられたものです。

 良心が先生ではなくて、鍛えられる必要があるのは生徒なのです。人権の神聖さに賛成の人たちは、同時に良心の最重要さに賛成することはできません。良心の最優先が意味するものは、個々の人が、全ての行為が正しいか間違っているかに関する自分自身の判断を信頼する資格があるということでしょう。そのような判断をしたいという願望は、アダムとイヴが「神のように、善悪を知る者となる(創世記:第3章5)」ようにそそのかされたときのエデンの園へと私たちを連れ戻します。

 教皇ヨハネ・パウロ2世は『真理の輝き』の中で、次のように書いています。「認めがたいのは、神とそのいつくしみにより頼む必要すら感じることなく、自已を正当化できると感じることができるために、自分自身の弱さを善に関する真理の基準にする人の態度です。このような態度は、道徳法全般の客観性に関する疑いと、特定の人間的行為に関する道徳的禁止の絶対性の拒絶を助長し、ついには価値に関するあらゆる判断を混乱させてしまうので、社会全体の道徳性を腐敗させます。」(真理の輝き:104)聖アウグスティヌスは私たちに、「神は不可能なことを命じているのではなく、その命令によって、あなたができることを行なうように、と同時にあなたができないことを祈り求めるように促しているのである。」(自然と恩寵:第43章50)と教えています。

 結婚した人間にとって、自分自身のごとく隣人を愛せよという第二の戒律が私たちを向かわせる第一の対象は配偶者であることを思い出して、教皇ヨハネ・パウロ2世は次のように書いています。「隣人に対して行われるすべての暴力行為の根源には、悪魔の考え方に同調する傾向があり、悪魔は「初めから人殺しである。」(ヨハネによる福音書 八:44)」使徒ヨハネが私たちに思い起こさせるのは次のことです。「あなたがたが初めから聞いた便りは愛し合うことである。悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインには倣うな。なぜ殺したかと言うと、自分の行いが悪くて兄弟の行いが正しかったからである。」(ヨハネの第一の手紙 三:11〜12)歴史のまさに始まりの時に弟を殺したカインの行いは、驚くべき速さで悪が広がる様子を悲しくも物語っています。地上の楽園で神に対して行なった人間の反逆は、その後人間対人間の死闘となります。

 多くの夫婦が、どちらかが不妊外科手術を受けるか、避妊薬を用いるかしなければいけないと医者に忠告されて悲しい思いをしたとか、助言を求めに行った司祭にただ「良心に従いなさい。」としか答えてもらえなかったということは、残念ながら本当のことです。夫婦が知りたいとずっと思っていることは、彼らの良心が当然彼らに教えていること、言い換えれば、教会の教えは何なのかということです。その情報の代わりに、与えられたメッセージは、「あなたが今置かれている状況で最良だと思えることをしなさい。」ということだったのです。これらの夫婦の多くは、見捨てられたと感じ、自分たちが住んでいる地域の教会のレベルでは、羊飼いが自分の羊の群れを見捨てた、神が自分の子どもたちを捨てたと感じるのです。彼らを取り巻く世界から、そしてときには異議を唱える司祭から直接受けるプレッシャーによって、彼らは避妊や不妊手術に解決策を求めるように説得されたのです。なぜこれほど多くの名ばかりのカトリック教徒が、受胎調節に関して教会の教えに従わないのか、またなぜこれほど多くのカトリック教徒の結婚が離婚や再婚の結末を迎えるのか、そしてなぜこれほど多くのカトリック教徒が人工妊娠中絶を受けてきたのかに関して説明をこれ以上探す必要はありません。多くの国で、カトリックの道徳的な教えの説明と切り離してなされた「自分の良心に従いなさい。」という忠告のために、教会や神学校から人が遠ざかってしまったのです。このような信仰の喪失は、人命尊重が死の文化において失われている現代社会できわめて重大なことです。キリスト教の2000年を通して、貧しい人、病気の人、困窮している兄弟たちに、教育や医療を与えることに最も影響力を持っていたのは強い宗教的信仰心に忠実な人々だったのです。

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