家族は教育のゆりかご

Dr. エペレン・ビリングズ
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

「1990年メルボルンで行われた第6回オーストラリア家族協会で配布されたレポート」

 このような素晴らしい皆さんの前で、「家族は教育の揺りかご」についてお話しさせて頂く名誉を下さった事をオーストラリア家族協会のメンバーの方々に感謝したいと思います。私は9人の子どもの母として、28人の孫の祖母として、又、その父親であり祖父である人の妻として生きてきたことから、このテーマについてなにがしかを学んだと思っています。簡単に言えば、揺りかごの中にはものすごく活気があるということです。それは、「揺りかご」という言葉を聞いて一般的に思い浮かべる「静穏」といったイメージの事ではありません。教育に関して言えば、揺りかごの中には二方向に働く作用があり、両親も子どもと同じく教わることが多いということです。

 私は15歳の孫娘に、このレポートの題目についてどう思うか聞いてみました。孫は、「家族からは沢山のことを学ぶわ。家族が多ければ多いほど、学ぶものは多いわ。」と言いました。これは興味深い意見です。何故ならその学ぶプロセスには、事実を知るだけでなく、沢山の人との絆を通して得た経験への適応を身体で覚える事が明らかに含まれているからです。それが、兄弟が5人いて良かった、と彼女が思う点でしょう。これは一人っ子では得られないものです。家族に新しい赤ちゃんが加わると、その赤ちゃんは家族に、特に兄弟達に大きな変化をもたらします。子ども達はすぐに赤ちゃんの大切さ、どんな世話を必要とするのか、何が最優先されるべきか、何を欲しがるのか、そしていかに赤ちゃんが欲しがるものがすぐに与えられているかを認識するのです。そして赤ちゃんはみんなに、自分中心でなくなること、責任や愛、気配りすること、色んなレベルで話しを聞いたり会話をすることの大切さを教えてくれ、そんな赤ちゃんがみんなは大好きなのです。

 

赤ちゃんは愛情の先生

 赤ちゃんも、どんどん物事を学んでいきます。寝かされてしまっても、泣けばお兄さんかお姉さんがまた抱っこしてくれると覚えていくのです。ある人が、どうしてそんなに沢山子どもを作るのか、と聞かれた時にこう言っていました。「一番年下の子どもが甘やかされないように」と!15歳の男の子が荒っぽく転げ回るサッカーの練習から家に帰り、父親のように優しく話しかけながら、幼い妹を抱き上げる姿はとても良いものです。最近では幼い妹を持つ15歳の少年はとても少なくなっています。今の15歳の多くは、自分の大きく頑丈な手の中の小さな指の感触を知りません。将来良い大人の男性になりたければ、色んな職業に就くに当たっても家庭を持つにしても、優しい手の持ち主にならないといけないと赤ちゃんの手は教えてくれるのです。赤ちゃんは、家族にとって愛情の先生なのです。

 もちろん赤ちゃんにしても、欲しい物がいつでも手に入るとは限らないと早い内に学ぶ必要があります。学ばせないまま幼児期に入り放っておくと、親は自分の手で暴君を作り上げてしまうことになります。しかしここでも、家庭では物事を正しく直す機能が働き、暴君のような態度は多くの場合、他の兄弟によって上手に処罰されるのです。両親も、一歩下がって自然の成り行きに任すことを早い時期に覚え、過度な干渉を控えながら、必要な時には公平さを守るために間に入るのです。ケンカで応じるというのは兄弟の間では良くあることで、両親にとっては頭痛の種ですが、ケンカにも良い面はあります。ケンカの決着が付くまでの間で両親は辛抱強くなり、一貫性と公平さを得ることが出来、いつ公正な方法で償いさせるべきか、が分かってくるのです。ここで私は「償い」と言い、「罰」とは言いません。私はアメリカの有名なティーンエージャー対象のカウンセラー、クレイトン・バーボー氏が言う、「罰」には報復めいたところがあり、ただ「親は子どもよりも強い」と証明するだけという意見に賛成だからです。正しい判断力が最もうまく形成される場所は、恐らく家族の揺りかごの中でしょう。良い政治家の形成もそうだと思います。

 

学ぶプロセス

 学習は、生命の最初から始まっています。未来に備え、自然は学ぶ準備してくれているのです。赤ちゃんの神経反応は子宮にいる早い段階から発達し、その多くは健康に育つ為に向けられています。受精から数週間経つと、胎児は自分の親指をしゃぶり始め、おっぱいを吸う練習をします。赤ちゃんには、母親のおっぱいから母乳を吸う準備が出来ているわけです。自然が教えてくれているのです。そして、赤ちゃんが産まれればすぐ乳首が見つかるようにと、自然の反射作用が発達しているのです。だから胸元に連れてこられた生まれたての赤ちゃんは、みんな口を開けて乳首が見つけられるまで探します。これは捜索反射と呼ばれており、赤ちゃんの顔の一方に乳房が触れる事で起こる反応です。もし誰かが間違って赤ちゃんの反対側の頬を押したりしたら、赤ちゃんは素直に押された方に顔を向け、期待を持って口を開けるでしょう。そしてやがて不満が泣き声となって表れるはずです。これは若い親にとって良い勉強になります。赤ちゃんは乱暴に扱われてはいけないし、それはティーンエイジャーになっても人生後半に入ったお年寄りになっても変わらないという事を学ぶのです。赤ちゃんが乳房を吸うと、オキシトシンというホルモンを分泌させる母親の脳下垂体後葉の作用で乳汁流下反射が起こり、母乳が流れ出ます。この反射作用を起こさせるのは、赤ちゃんが乳首を吸うからだけでなく、母親が赤ちゃんの空腹時の泣き声を聞いたり、赤ちゃんが指をしゃぶっている所を見たりすると、又、赤ちゃんのにおいを嗅いだりするだけで、この乳汁流下の現象が起こります。母親と赤ちゃんの生理学上の関係は、このようにとても近いのです。母親と赤ちゃんの絆や、母親の強い愛と赤ちゃんを守ろうとする本能で、きっちりと絡み合っているのです。2歳の子どもでも、赤ちゃんにミルクをあげたり世話をしていると、そういう生理学上の事実をすべて学習し、赤ちゃんが何を欲しがっているか母親に教えたりもします。私の知り合いの3歳になる子どもは、ミサの途中で家族の前の席へ身を傾け、泣いている赤ちゃんの事をお母さんに伝えたのです…「赤ちゃんがオッパイが欲しいって」と。

 生まれて間もない赤ちゃんは、食べてはそれを外に出します。これはもう一つの反射作用で、胃大腸反射といいます。赤ちゃんは不快感で泣き出し、母親はその泣き声を聞き分けられるようになり、おむつを取り替えます。赤ちゃんはおむつ交換を楽しみに待つようになり、快感も学習していくのです。この一定の手順の繰り返しは、早期からの学習メカニズムを赤ちゃんに植え付けます。ですから母親と赤ちゃんとのやりとりが崩れてしまうと、とても不幸な結果になっても不思議ではありません。母親が経済的誘因や学歴が高いことで仕事にかり出され、又は退屈さや単なる間違った風習から仕事をし、そのせいで赤ちゃんが託児所で面倒を見られることになっているのは、今日の社会における重大な犯罪のひとつと言えるでしょう。これは自然に逆らっている最もいい例です。この不自然さは罰として、母親側に深い欲求不満を与えます。自己不満、短気、不機嫌へと波及するさざ波を引き起こす、大きな石であるのです。赤ちゃんにしてみれば泣き声の訴えを聞いてもらえない、又は知らない人にその都度違うやり方で、しかも待たされてから接せられるのですから、どういう気持ちか分かるでしょう。赤ちゃんは理解も出来ず抗議も出来ないけれど、ちゃんと扱われないことで自分は愛されていないと思うのです。赤ちゃんは乱暴に扱われているのですから。赤ちゃんは逆らえません。でも、苦しんでいるのです。

 アメリカのある新聞の最近の記事に、「孤児、又は親に見放されて入院しているエイズの赤ちゃん達の世話をしたい、とあるグループが申し出た」とありました。その赤ちゃん達は母親を失い、辛い思いをしていると思われたからです。ところが、「女性が特定の子どもの世話についたとき、その子どもが死んでしまうと、世話をした女性の苦しみと喪失感は非常に大きくなる」と言われました。そこで当局としては、「女性は一人の子どもを独占的に世話するのではなく、子どもから子どもへと無差別に注意を払うように」と決めたのです。でも私にすれば、もし女性達にそれだけの小さなエイズ犠牲者達への献身と愛情があるなら、自分の哀しみも克服出来るし、赤ちゃんとの一対一の関係を確かにする為に、その思いやりの気持ちを広げていけると思うのです。赤ちゃんにとってはいつも人が変わるのではなく、常に変わらない愛のやりとりだけが生きる喜びであるのですから。「母親との絆を壊され奪われる辛さを味わわせてはならない」という事がいかに大切かが分かっていたら、彼等は最初の申し出を受け入れていた、と私は思います。よくあるように、これは「無知」ということ、「非難されるべき状況に気が付かない」という事なのです。赤ちゃんは説明することも出来ず、ただ静かに苦しみ、他の人のする事に従わざるを得ないのです。その人達に悪気はなく、ただ間違った考えを持っているだけ…「食べ物を与え清潔にさえしてやれば、赤ちゃんは満足」と思い込んでいるのです。

 このように赤ちゃんのいるべき場所は自分の家で、自分のお母さんが一番望ましい相手なのです。このような愛情に満ちて安全な環境の中にこそ、子どもがこれから色々学んでいく準備が出来上がっているのです。「小枝を折っておけば、木は育つ」。だからティーンエイジャーの問題は幼稚園の段階で先手が打てる、と私はいつも主張してきたのです。  赤ちゃんと母親についてはまだ言いたいこともありますが、赤ちゃんと父親についても言いたい事があります。赤ちゃんを大切に育てる役割を担うよう励ましながら、お話ししたいと思います。最近では多くの父親が親としての役割を真剣に受け止めていますが、これは将来子ども達が父親を信頼し、愛すべき親友と思うようになる良い兆候です。その様な家庭には、近親相姦などの悪が入り込む余地はありません。もし父親に、母親が赤ちゃんと家にずっといっしょにいるのに十分な収入がなければ、少なくとも父親が十分な父親になればいいのです。そうするにはある程度の犠牲を払わなければなりませんが、愛とは気持ちを行動に移す事であり、自分も少しは犠牲になる事なのです。良心的な両親達の間では、親のどちらかが一日のより多くの時間を子ども達と過ごせるように、非常に良くできたプログラムが作り出されています。又、世界中の進取的な企業では母親と父親の育児休暇を認めており、復帰時の仕事を保証し、子どもの便宜を図った時間に帰宅できるような雇用形態を提供してくれています。

 幼い子ども達は、親との遊びから多くを学びます。子ども達はそれで幸せなのです。ですから言うことを聞かない子どもの多くは、不幸せな子ども、愛に恵まれない子どもです。愛を奪われた時だけは、子どもはおとなしくしていられないからです。子どもにとって両親とは、世界そのものなのです。いっしょにいたいのです。認めて欲しいのです。自分を独占して、話を聞いて欲しいのです。だから小さな子ども達はひっきりなしにしゃべり続ける事が多く、やがて思春期が来るとしゃべるのを止め、不気味なくらい考え始めるのです。

 ある4歳の男の子が、ある日、特に言うことを聞きませんでした。そしてガレージで黒いペンキの缶を見つけ、手にペンキをつけて部屋に入り、壁に塗り始めたのです。その日は大勢の方が来られ、夕食会を開くことになっていたので、準備に忙しかった母親はひどく怒りました。お母さんはしたたかに一発平手打ちし、子どもは大泣きしました。その夜、お母さんが子どもを寝かしつける時、「今日はとても悪い子だったわね。良い子にするために、お母さんはどうしたらいいのかしら。」と言いました。男の子は大きく開いた青い目でお母さんを見て、「キスしてくれれば良い子になるよ。」と言ったのでした。

 共働きで子どもを託児所に入れている親には、「すべてから開放されるために」週末になるとベビーシッターを雇う人が多いでしょう。そういう親は、起きている間ほとんど親のそばにいない子ども達を良く知る事は出来ません。もし親が、子ども達からの自然で人間的な欲求に、せめて学校にはいる歳までは答えてやる事が出来たら、もっと良い結果が得られると思うのです。子どもを良く知れば子どもに魅了されるようになり、子どもを人間として関心を持つようになり、子どもがいかに家族の為になっているかを重く感じるようになるからです。

 

障害を持つ子ども

 家族の中に特別な世話を必要とする赤ちゃんが産まれてくると、残念に思ったり怒りを感じたりする時にも、親からの、特に母親からの特別な努力と特別な愛が生まれてくることが多くあります。そういう子どもは他の兄弟に比べて、一番可愛い服を着ていたり、可愛がられているように見えます。きっと、その子の不運を補いたいと無意識に駆り立てられて、そうするのでしょう。こういう子どもは、家族に深い影響を与えます。家族の誰もが、その子の苦しみの一端を担うようになり、忍耐と無私を学びます。また、友達や知り合いからひどいことを言われたり、更には「どうしてそういう子どもを産んだのか」という非難の声に耐えることを学ぶのです。多くの場合、両親は、他の兄弟を思いやってその負担のほとんどを自分達で担おうとしますが、それでも日常的な事では兄弟も手伝わざるを得ないでしょう。こういう子どもを愛しても、大抵は何のお返しもありません。それは厳しい経験ですが、一番大切な勉強です。他の兄弟達や両親がその事を学べば、思いやりを通してイエス様のような愛を知ることが出来た、素晴らしい人間に変われるのです。それは、このような子どもからの贈り物なのです、悪などまるで知らない、天使のような子どもからの。

 どの子のケースもそれぞれ異なり、障害によっては動きが激しすぎたり、危害を加えたりして、家で面倒が見られない障害児もいるでしょう。しかし、そういう子どもを施設に入れるようにとその家族に勧める前に、よく考えるべきです。それより、家庭内でうまく対処していけるように協力するべきなのです。そういう子どもに少しでも進歩が見えた時の喜びを家族から奪ってはいけません。その子の限界がどの程度であれ、子どもは自分に降り注がれる愛を感じ、そこからなにがしかを学び、その子に届く限りまで手を伸ばすのです。それは施設では決して出来ないことです。そういう子どもを「負担である」として除去してしまうのは、その子だけでなく親にとっても大きな損害かもしれません。そうすることは、親がしてやれたかもしれない愛の力による努力を無視し、苦しみが愛の力で受け入れられた時に得られる充実感を取り上げてしまうのです。出来る限り最高なものを最大に引き出そうとするのが、自然と人間の本来の姿です。それについて与える側であるのは、家族だけでなく、その家族の中の特殊な子どもでもあるです。

 社会はわがままになってきて、不完全なものを排除するようになっています。自分の計画にそぐわない場合、その対象は人にも及んできています。老人や障害者は勿論ですが、今では赤ちゃんでさえ、子どもが多すぎたり、欲しい性別でなかったといって、存在に値しないと見られているのです。「不自由さや不運は我慢しなくても良い、老人は静かに自分から退いていけば良い」と思うように人々はしむけられています。こういうメッセージは若い人達を確実に感化しており、責任感に欠けたわがままさが、中絶や自暴自棄、自殺や年老いた親の安楽死につながっているのです。ミュージカル「オリバー」に出てくる歌、「どこに、ああ、どこに愛はあるの?」を、オリバーといっしょに歌おうではありませんか。

 メディアでは、精神障害者に避妊手術を施そう、という声が日増しに高まっています。その裏にある理由は、実際苦しんでいる障害者達への思いやりではなく、管理人(介護者とは言えないでしょう)を楽にする為です。彼等は、「知恵遅れの女の子が毎月、目にする出血による精神的ショックを考えれば、子宮摘出の小さな手術は大したことではない」と主張しています。でも本当の事を言えば、管理者の手を出来るだけ煩わせるべきではないということなのです。そして、妊娠する心配も不必要になり、楽になるという訳です。しかしそれは、不妊にされた障害者に向ける監督者の注意をゆるめ、その事から起きうる虐待や病気の可能性をまったく無視していることになります。同じ理由で、長期避妊薬のデポ・プロベラが精神障害を持つ女の子達に広く使われています。彼女たちの世話をしている人達からの報告によると、この信じられない扱いを受けている女の子達の性格にこの薬は大きい影響を与えており、彼女達は薬によって気難しくなり、扱うのが難しくなるといっています。彼女達には理解することも、自分で選択することも出来ないのです。完全な愛情を持つ家族だけが、この問題を受け止めて対処できるのです。家族はそのことを勇気づけられ助けられこそすれ、問題を解決しきれないとか、そんな大変な思いをする義務はないとか言われるべきではないのです。

 

かけがえのない両親の役割

 人間はどうやって学習するのでしょうか?最近のある教育者が指摘するには、何を教えるにしても一番良い方法は、生徒の注意力を彼等が望む知識や技術に持っていく、つまり、生徒達が魅力に感じる方に持っていくことだといいます。子ども達は大きくなるに連れてどんどん学び、自分に関係あるものに自然と惹かれていきます。彼等の欲望は飽くことを知らず、両親は必要なものを与える為にそばにいなくてはなりません。テレビやビデオ、雑誌などから入ってくる情報には私達も嘆かされますが、若い子ども達の心がそれらの影響を受けるのを妨ぐのは不可能だとも分かっています。しかしただ突っ立って、「その内こういうものは私達の社会で検閲を受けて処分されるようになるだろう」等と考えている訳には行きません。また親が子ども達の教科書、特に小説や歴史や社会の本を読んでいっしょに話し合う労を惜しまなければ、子ども達が教師からどんなことを吸収しているのか、親にも分かるようになります。そして何を吸収しているかによっては、咎められなければならない場合もあります。子どもは、親によって教師とそういうことになるのは嫌がるものですから、それは難しい事でしょう。けれど、もし何かがひどく間違っているのだとしたら、どんな結果になろうとも、それは正されないといけないのです。何もしないでいる方が被害は大きく、辛い思いをしてでも得られた教訓は、将来子どもが難しい決断を迫られた時に大きな力になるのです。人はどの程度、「お父さんだったらこういう場合どうしただろう?」とか「お母さんだったら何と言うだろう」と思い返すものなのでしょう。常に正しい行動をとり、正しいことを言い、正しさを掲げている、自分が見本として従う事が出来る完全な父親や母親を持つ人は幸せな人です。子ども達が家を出た後も、この良い見本は続くものだからです。

 教育のこうした有害な面を押しとどめるひとつの方法は、悪い影響を妨げたり、悪い影響の代わりになるものを魅力的だと子ども達に思わせることです。それは簡単なことではありません。それを達成するためには、親も自己訓練でしっかり自分を教育しなければなりません。ただ良い結果を望むだけではなく、常に気を張っていなければならないのです。親は、自然がそうであるように、前もって準備して待っているべきです。家族の会話や一人ずつの秘密や要望をいつでも聞けるよう準備をしていなくてはなりません。時間は、現代、特に都会の暮らしには最も貴重なものなのです。そして親は首尾一貫していなければならず、状況に合わせてルールを変えたりしてはいけません。原則はしっかり理解されていなければならず、よく説明される必要があるのです。しつけは建設的であるべきで、抑圧的だったり筋が立たないのはいけません。有効性と首尾一貫していることが子ども達には安心感を与え、自分には帰るところがあり、受け入れられている、と感じさせるのです。そういう環境にある子どもは、他の子ども達を家に連れてくるものです。そして人の家にはあまり行きたがらないものです。もし他の家に行きたがったら、何故人の家に惹かれるのか調べてみるのが良いでしょう。良い理由とは限りませんから。そして子どもが親に意義を申し立てた時は、ゆっくり時間をやって辛抱強く待つことです。もし子どもが、自分のしていることは両親にとって受け入れがたい事だと理解すれば、そして両親が自分達のために何を望んでいるかを尊重するなら、悪いことをした後でもそれについて考えていると実際悲しくなってくるはずです。そこで両親は、「助けを求める声」に気が付くようになるべきなのです。幼児と同じように、悪い行いには気持ちが現れているからです。言うことを聞かない子は、寂しがっている子なのですから。その原因を探り出し、もしそこに誰か他人がからんでいたら、それは難しい問題になるでしょう。だから親は心理学者になったり探偵になったりしなくてはなりません。それも、可哀相な悪い子への愛情が元になっているのですから、とても優秀でなくてはなりません。でももし子どもが小さい頃に基礎がちゃんと出来ていたら、解決策を見つけて子どもを更正させるのはそんなに難しくないはずです。愛されていると知っていれば、許すことも簡単ですから。

 親は、神様のように待つ事が出来ます。時には最後の一章が一番大切な事もあるのです。私の家族の中でよく言われた有名なことわざで、父が怒ったときによく大声で言っていたものに、こういうのがあります。「あきらめたら負け」「お墓のこっち側には満足の余地はない」!

 

本来の両親の役割

 しかし、もし必要な基礎が築かれておらず、子どもが家庭の中でいつも押しやられ二の次に考えられていたら、子どもの態度がどんどん悪くなってもおかしくありません。本当に愛されるという事を知らないと、子どもはますます自分の欲望を満たそうとします。そういう子ども達が、若い頃に家を出たり、手に負えなくなった両親に家を追い出されたりして、「愛には自分を捧げること、努力、そして時間が必要」と教える「揺りかご」の秘密をきちんと学ぶことがないのです。その代償は恐ろしいものです。そういう子ども達は、誉められたこともなく、ただ叱られて黙らされてきたので、自分に自信を持てなくなります。もし少しでも忠実なところがあるとすれば、それは自分自身への忠誠でしかなく、又は友達をしょっちゅう変えて信頼関係が壊れる度にころころ変わる忠誠心なら持っているかもしれません。それがストリートチルドレンであり、彼等の為に私達は心を痛めているのです。そこから起こる問題は測り知れないもので、全部を解決しようとしても私達の手には負えません。聞いた話によるとブラジルでは、生きていく為に犯罪者となったホームレスの若者達のギャングが平和を脅かすとして、裕福な人達が殺人部隊に依頼し、彼等を殺してくれと頼んだといいます。

 私達は解決法を探し、防止する準備をしなければなりません。それにはひとつの簡単な方法があります。それは、母親に母親としての本来の役割をさせてあげ、家族を養い守り教育するという父親の役割に威厳を持たせることです。女性の家での役割を発展性がなくて、暗くて、つまらなくて、単調な仕事と描くのではなく、逆に、とても重要な仕事と認識し賞揚するべきなのです。確かに家の仕事は同じ事の繰り返しではありますが、その環境はいつも変化しているのです。要求されるものが変われば危機も乗り越えられ解決されるものなのです。単調になりがちな外での仕事に比べ、家事はもっともっと刺激的で楽しいものです。大きな違いは、努力の価値と努力に対する報いです…片方は、幸せになってもらいたい愛する子どもの発育と成長の手助けをする事であり、もう片方は、多くの場合ただお金をもらうだけです。お金の為におろそかにされたものは、もらった給料の何倍も払っても決して買うことは出来ません。時間は後戻りできないのです。

 

信頼が大切

 時間をかけて絶え間なく接しないと子ども達が学べない事は沢山あります。独立心と寛容さとは、そうやって習得するものです。両親がしてやれないことを補うために甘やかしすぎるのでは、寛容さを教えることは出来ず、子どもを自己中心的にしてしまうだけです。お金で解決されている、と子どもには分かってしまうのです。又寛容さとは、例を挙げるだけで教えようとするのは、小さな子どもには難しいことです。必要なのは子ども達にも努力を要求することで、与えられたものへの感謝を経験させる事なのです。両親があまりにも不在なことが多い事から子どもが得る独立心というものは、自己中心的でわがままでひねくれてしまうことが多いです。信頼と自由はバランスを取るのが難しく、常に注意を配っていることが必要です。信頼は子ども達と絶えず接することによってのみ築かれ、それがやがて独立心を育てるのです。子どもには「信頼」の大切さを教えなければなりません。それは愛の上に成り立つのです。実例を見て、子ども達は、両親が自分に嘘をつかないことに気が付きます。両親を信じることを学ぶのです。そして、両親が自分に持っている信頼を失うことがいかに悲しいことかを知るのです。

 子どもの幸せは親にとって一番重要なことで、親が子どもを監視するのは信頼していないからではなく、ただ子どもに何が危ない事かを理解させ、災難を避けられるようにしたいだけなのだということを親は子どもに示さないといけません。親の心配事を増やして欲しくないから子どもを危険から遠ざけようと子どもを縛り付けたり、独裁的になったりするのは良くありません。本当かどうかはわからないけれど、不公平と訴える子どもの話を愛情を持って聞いてやって、問題を正して解決すれば、親の協力も喜ばれます。ところが、もし親があまりそばにいなければ、親と子どもが顔を合わせるたびに未解決の問題が持ち上がるのは当然の事で、争いが絶えないことになります。そして多くの場合、どちらかが怒鳴ることになり、「顔を見ればいつだってケンカしたいんだね」という状況になるのです。そういう環境では何の進歩もありません。

 

子どもへの宗教教育

 家庭の揺りかごの中で与えなければならない教育には、ふたつの特別な分野があります。一つは宗教教育で、もう一つは性教育です。学習の他の面と同じように、宗教と性の教育は早い時期に観念的に吸収され、同一歩調を取ります。この二つの分野については、親も特別に配慮しなければなりません。子ども達はあいまいな規範や偽善は受け付けないので、親は身をもってそれに専念することが要求されるのです。子ども達はお手本と、自由で愛のこもったコミュニケーションに応じるのです。

 宗教に関する普段の習慣は、育ちゆく子ども達に大切なものです。宗教的習慣の日課を発展させることは、子どもの将来において有益で幸せな人生の探求を可能にさせてくれます。特に、早い時期での経験が楽しい義務として受け止められ、宗教が恐ろしく抑圧的なものとしてではなく、自分の身近に感じられれば尚更です。情愛のある神が、こんなにも沢山の素晴らしいものの中に存在しているという意識を毎日の生活に持ち、お返しとして神が私達のために作られたルールを守ることで神を愛そうとすれば尚更そうなのです。そのルールとは、神のご意志にかなう規律を意味し、私達カトリック教徒が教会の厳然とした教えの中で詳細に述べてきたものです。それを子ども達に提示するのは、両親の献身的な愛でもって示すのが一番なのです。

 なんでもそうであるように、宗教においても愛は意思を行動に移すことです。「人々にして欲しいとあなたが望むことを、人々にもその通りにせよ」という黄金律や、「自分を愛するがごとく隣人を愛せよ」という第二戒などに色々書いてある、人が生まれつき持っている正と悪の違いの理解とは別に、私達をその喜びとして造られ、私達人間一人一人を愛し大事に思って下さる神を探して見つける必要が、私達人間にはあるのです。その神の捜索が最も満足に達せられるのは、愛情溢れる家族の中です。何故なら、自分が神に愛されていると感じる事が、それぞれの精神的安心感を生み出すからです。もし親が、いかに子ども達を愛しているかを伝え、神様はそんな自分達よりもっと子ども達を愛しているのだと断言したら、とても大きな安心感を得るのです。

 それを成し遂げるには、子ども達がお祈りを通して神を知り、身近に感じる事が本質的に必要です。子どもがお祈りが上手になるのは、小さい頃から両親と一緒に祈るからです。どうやって祈るのかを覚え、お祈りは聞き届けられると確信する事は、家族から学ぶものの中でも一番貴重で長続きします。何故なら、その子に何が起ころうとも、それは愛と同じくいつでも手に入れられるからです。

 

子どもの性教育

 性教育においては、問題はとても難しくもなり得るし、とても簡単にもなり得ます。宗教教育と同様、性についても早い時期に習う事が望ましく、献身的な家族の中でなら、子どもは難なく本質を吸収します。昔は、また残念ながら今日の親も時々そうですが、性の知識や用語に乏しく、この話題を避けようとしたり、質問されても曖昧に答えて話をそらせてしまいがちでした。例えば赤ちゃんはキャベツから産まれるなどと言っていたのです。でも近頃の多くの親は、自然な家族計画を使うので知識が豊富です。子どもに教えるのに必要な知識を十分持っているので、子どもが大人になり結婚する年頃になった時、ほんの少し特別な知識を新たに得るだけで、確実に問題なく受胎調整出来る様になるのです。子どもが質問してくるたびに答えてやるのは、子どもが自分自身や子どもが出来る仕組みやその過程について知りたがっている好奇心を満たしてやる良い方法で、無理なく徐々に出来る方法です。最近あるお父さんが7歳の息子に「パパ、セックスって何?」と聞かれ、熱心な返答で息子に向かい合いました。少し動揺はしたけれど、父親としての務めに潔く立ち向かい、詳しく説明したのです。ところが男の子はあまり納得していない様子でした。不思議に思ってお父さんが息子に「どうして知りたいと思ったの?」と聞くと、「今日先生が教室を出る時、「セックス(=数分。数分を意味するセカンズを省略して言うとセックスになる)後にまた戻ります。」と言ったから」と答えたのでした。これは本当にあった話です。

 ところが避妊や不妊や中絶を経験している親の多くは、この話題について直覚的な嫌悪感を持っており、子ども達と話をしようとしません。自分達が辿った道より正しい道を推奨し歩ませようとすると、子ども達はやがて親の偽善に気が付きます。子どもは親が思っているより親のことが分かっているものです。子どもはすぐに二重の基準が機能していることに気付いてしまうのです。多くの親は、その子ども達と同様に、避妊と中絶が簡単に入手できることもあり、簡単で快楽的セックスを勧める傾向に影響されています。世間では「人口過多」と偽った警告がされ、「胎児は厄介者で存在価値がなく育てるに値しない」と間違ったプロパガンダが流れています。赤ちゃんについてこういう見解があっては、子どもは自分の家族の良い点についてはちっとも教わらず、悪い点だけ認識するようになってしまいます。もしそこで幼い心に創造主への畏怖が植え付けられていなかったら、また自分自身も神の意志で生まれてきた事を認識していなかったら、彼等は赤ちゃんを生まれるべきでない有害物、障害物とする、ちまたにありがちな世論と同じ意見を持つようになるでしょう。赤ちゃんは汚染物と同じで、やがて森林を破壊するようになり、鯨をもっと乱獲するようになり、オゾン層にもっと穴を開けてしまうようになる、という風に。言葉を換えて言えば、子ども達は仲間の人間である赤ちゃんを犠牲にして、放縦でわがままな道を進んでいるということなのです。

 

間違った提唱者は避けよう

 私達は、真実を持ってこういう意見を押しとどめ、赤ちゃんに愛情を向けなければなりません。ディレック・レウェリン・ジョーンズ教授の書いた「すべての女性」という本は、ここメルボルンのいくつかのカトリック系学校の指定教科書になっています。この本では、性交は良いこととされ、妊娠の心配は避妊すれば必要ないので、しかも避妊は一番無害だから、性交は娯楽として楽しんで良いというのです。中絶も可能だし早期の胎児はただの卵だというのです。女性は「尊厳と安全」を損なわずに中絶できるし、コンドームもエイズを防止できるので推奨されています。ピルは妊娠を防ぐ為に支持され、オーガズムは一人ででも異性とでも同性とでも、性行為の第一のゴールだとされています。だからマスターベーションも良いとされているのです。そして教会の考えは時代遅れだと宣言しています。いくつかの教会の学校が、この危険な見解に従って一生懸命時代についていこうともがいているのを見て、レウェリン・ジョーンズは喜んでいることでしょう。

 親は恐れと無知から行動してしまって、自分でもよく分かっていない事について子どもを扱う場合、時として乱暴になりがちです。例えば、子どもがマスターベーションをしていると知っただけで、罵倒したり、絶望で絶句したりします。親は、このよくある問題に向き合わねばならず、このことについて肯定的に、また否定的に話し合う事を学ぶ必要があります。多くの子どもは、生殖行為の快感を早い時期に覚えます。そして意図的に頻繁にするようになると、自然にそれを隠そうとします。やがてこの行為が良いことではないという気持ちが生まれ、心配と恐れが生まれます。そこで親はシンプルに、「そういう感覚も新しいいのちを生み出す愛の行為の一部で、夫と妻、つまりお母さんとお父さんだけのものなの」ということを説明すればいいのです。小さい子どもは性交に関する神学上、精神上の教えをすべて深く理解することは出来ませんが、やがて子どもが性をコントロールする真実と大切さをあらゆる面から学ぶ為の基礎にはなるのです。心配は緩和され、自分達が結婚して子どもを作る時が来るまでは、愛の行為に手を出さない大切さを理解する助けになるのです。もし子どもが幼すぎて、簡単な説明でさえ分からなかったら、他のもっと魅力的な活動に子どもの関心をそらし、止められなくなる哀れな営みから遠ざけるのが良いでしょう。

 性の道徳、又は幸せな結婚や安定した過程を作る条件について、親が子どもに教えられない、又は教えないのであれば、私達が、道徳に恵まれない子ども達が周りにいるのを知って、そんな彼等を愛する私達が教えなければなりません。私達は、次の世代の準備をしなくてはならないのです。教育を受けず愛されなかった子ども達が、すでに子どもを持つ年になっています。彼等がその子ども達に教える立場になるのです。妊娠しない為の抑制を自分の責任として受け止める事と、その責任を避妊薬や器具や誤った行動に転嫁する事の違いを、親が良い模範にならないのであれば、きちんとその子ども達に教えてあげなければなりません。責任を転嫁する考えは、赤ちゃんを拒否することにつながり、赤ちゃんに危害を加えるまでになってしまいます。妊娠しないように自然な方法で抑制し、赤ちゃんを愛する事を学び、受け入れるように自分に自信を持ち、自分を信じることです。そうすれば、母親と父親、夫と妻の愛情の絆を深める高い自負心を身につけることが出来るのです。一番良い性教育が行われ得るのは結局は家庭の中ですから、家族そのものが教育を受ける為にも手助けが必要です。世の中には自然の秩序と神による計画があることを知るのも、学ぶことの一部です。子ども達が、自分は何なのか、何のために生まれてきたのかを認識するのを、徐々に助けていくプロセスなのです。ヨハネ・パウロ2世の言葉にもあります。

「私達は、神の定義を下さないで人間の定義を下すことは出来ない。神は真実、美しさ、善良に溢れ、私達を導いて下さる。」

 つまりこの教育の揺りかごは、いろんな荒波に揉まれ苦闘するけれど、この要塞であり安全な場所である場を親子が享楽できる、かけがえのない機会を与えてくれるのです。人はここで大人になり、完璧を求めて手を伸ばすのです。神は私達にそうするように教えて下さり、その能力を与えて下さったのです。この抵抗できない程の愛の力は、生きていく上で出会う様々な影響にも取って代わるものなのです。親だって間違いは沢山犯しますが、もし子どもが親に愛されていると分かっていたら、その愛はいくつもの罪を補い、やり直すチャンスをいくらでもくれるのです。

 私達は家族として、聖アウグスティヌスの有名な言葉を信じなければなりません。

「一度だけ汝に短い教訓を与えよう。愛をもって、望むことをしなさい。幸せをつかみたいなら、愛をもって幸せをつかみなさい。泣きたいなら、愛をもって泣きなさい。正したいなら、愛をもって正しなさい。思いやるなら、愛をもって思いやりなさい。」

自分の中に愛の根を生やしなさい。その根から生じるものに、悪いものはありません。

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