幹細胞研究

Abboud, Amin (アブード・アミン)
許可を得て複製

普通の人は、幹細胞に関する議論で当惑してしまう。胚盤胞、桑実胚、ミトコンドリア、細胞質など、高校の生物でもきちんと習ったことのないような単語が多数登場するからだ。しかし、生物学者でなくても、世界中の新聞を賑わせている幹細胞を巡る倫理的論争の重要性を理解することはできる。

再生医療の限界が、その根本的な問題である。再生医療は、ヒトの幹細胞を使用して損傷を受けた臓器や身体部分を修復するという大きな可能性を秘めた新しい分野である。再生医療には、膨大な資金と研究努力が投入されている。しかし、技術発展が常にそうであるようにこの分野も倫理的に中立というわけではない。我々は、これらの幹細胞の由来に注意しなければならない。それがヒト胚に由来する場合、倫理的に重大な問題が生じる。幹細胞を採取するために胚を破壊することは、倫理的に容認できるものではない。まだ胚の段階であっても、ヒトの生命を研究の道具や薬として犠牲にしてはならない。

幹細胞への簡潔な入門

通常、皮膚細胞は、最後まで皮膚細胞である。また、神経細胞は最後まで神経細胞である。しかしながら、幹細胞は、心臓細胞、神経細胞、筋肉細胞、皮膚細胞など、さまざまな細胞に変化できる。幹細胞は、そこから枝(各種細胞)が発達する幹あるいは茎のような存在なのである。あらゆる種類の細胞に進化できることから、初期胚の幹細胞が究極の幹細胞と言える。こうした能力を持つ幹細胞をさまざまな分野に活用することで、一部の医学的状態を治療できるのではないかと期待されている。

幹細胞に関する科学は非常に新しく、科学者たちは常にテキストの書き直しを行っている。現在、成体幹細胞および胚性幹細胞という2種類の幹細胞が議論の中心となっている。成体幹細胞は、患者を傷つけることなく体組織から取り出すことができる。成体という単語は、その細胞が完全に発達した組織からのみ取り出されることを意味する。完全に発達した組織としては、成人、子ども、あるいは新生児の胎盤などがあげられる。胚性幹細胞は、初期胚から取り出され、その過程で胚が破壊される。別の種類の幹細胞として、中絶した胎児から取り出される胚性生殖細胞がある。胚性生殖細胞は、胚性幹細胞と同じ潜在能力を持つと考えられている。

この背景説明資料では、胚性幹細胞を使用することの倫理性に焦点を当てる。他の医学的治療と同様に、成体幹細胞の使用においても倫理的課題はあるが、胚性幹細胞の使用は常に胚の破壊を伴うことから、倫理上問題であることは間違いない。

幹細胞治療に期待されるベネフィット

顕微臓器移植などの幹細胞治療について考えてもらいたい。この治療で体内に注射された細胞は、損傷を受けた組織に到達し、その組織を修復したり、補ったりする。幹細胞治療の利点が最も期待できるのは、パーキンソン病、糖尿病、脊髄損傷、心臓病、癌の患者である。

ただし、こうした治療が開発されるまでには、長い年月を要する。胚性幹細胞研究の推進者たちでさえ、幹細胞治療の実現は数十年後になると認めている。病気というものは複雑で、治療は簡単ではない。理論上の治療の可能性について熱のこもった議論が行われることで、安全かつ効果的で、コスト効率の良い治療法の発見に向けた長年の努力が美化されることも多い。楽観主義に走りすぎないよう、現実を見据えた軌道修正は常に必要である。

今のところ、実際に患者の救済に役立っているのは、成体幹細胞だけである。胚性幹細胞の研究が患者を救った例は世界で1件も報告されていない。現在まで、成功率はゼロパーセントなのである。

胚から幹細胞を採取する

ヒトの胚を採取することは容易ではない。現在、胚は3つのルートで入手されている。すなわち、IVF治療で残った胚、ドナーの卵子および精子から研究室で作成された胚、体(身体)細胞からクローニングした胚である。

胚は、受精後5日から7日間の成長を経た後、構成要素に分割される。もちろん、この段階で胚は死んでしまう。幹細胞は培養液に入れられ、そこで急速に細胞のコロニーまたはクラスターを形成する。次の段階で、希望の細胞(心臓細胞、すい臓細胞、脳細胞など)に変化するようこれらを誘導する。細胞分化をプログラムすることは、世界中の多くの科学者が目標とすることである。しかし、現在まで、成功例はほとんど聞かれていない。

幹細胞研究者の一部は、IVFの凍結胚や、ドナーから提供された卵子や精子から発生させた胚を、胚の発達に関する神秘および遺伝子疾患のメカニズムを研究するための有益なツールと考えている。しかし、現段階において、これらを治療に利用できる可能性は極めて低い。問題は、幹細胞が患者と同じ遺伝子構成を持たず、免疫抑制剤を使用しなければ、拒否反応を起こしてしまうことである。

そこで、多くの科学者が望ましい方法として提案しているのが、体細胞核移植により新しい胚を作ることである。クローン羊のドリーもこの方法で誕生した。幹細胞を抽出する目的でのみヒトの胚を意図的に作成することから、この方法は「治療目的のクローニング」と呼ばれている。しかし、胚にとっては何ら治療的意味を持たず、この名称は全く誤っている。科学者や生物学者は、胚のクローニングにより、「オーダーメイド医療」、すなわち個々の患者に合わせた個別医療の時代が到来すると予想している。このことは、科学者たちに商業レベルでの「胚バンク」の設立を認めることを意味している。

ヒトの卵子の利用可能性が低いことが、「治療目的の」クローニングの拡大を制限している。卵子の採取に伴う苦痛、不都合、身体的リスクをあえて冒す女性は少ないため、卵子は希少かつ高価である。卵子の市場が形成されれば、貧しい女性が利用されることは明らかであり、それをひとつの理由として、フェミニストたちは「治療目的の」クローニングに異を唱えている。こうした状況を受け、幹細胞研究に伴うモラルの複雑性が増す中、一部の研究者は、動物の卵子を使用し、ウシとヒト、ウサギとヒトを交配した胚を生成する可能性を提案している。

成体幹細胞と再生医療

臨床現場で機能している唯一の幹細胞が、成体幹細胞である。事実、成体幹細胞は、30年も前から骨髄移植などの治療に用いられている。最近では、脳、脊髄、皮膚、脂肪など、体の随所に成体幹細胞が存在することが明らかとなっている。標準的な臨床治療として認められるためのハードルを越えたものはないが、こうした幹細胞の使用に今後が期待されている。

識別、分離、採取が容易である、入手しやすい;研究現場において増殖が簡単で早い;「可塑性」が高い、という理由から、これまで胚性幹細胞のほうが成体幹細胞より臨床的潜在性に優れていると考えられてきた。

しかし、こうした見解はすべて誤りだった。最初の2つの主張は誤解を招くものである。成体幹細胞の識別および分離という課題は、克服されつつある。バイオテクノロジー企業の中には、成体幹細胞の分離と抽出をさらに簡易にする独自の方法を開発したところもある。成体幹細胞に関しては各々について別個の問題があることも確かだが、研究者たちにより、ある種の細胞を2、3週間で増殖させる環境が発見されている。

胚から採取した幹細胞の使用における焦点は、それらの「可塑性」が高い、すなわち、胚性幹細胞が他の種類の細胞に分化しやすい点である。この主張には一定の根拠があるものの、テクノロジーは急速に進歩しており、成体幹細胞から全種類の体細胞を形成することは不可能と断言するのは軽率と考えられる。米国の国立衛生研究所は、「幹細胞研究の分野は、驚異的なスピードで進歩しており、科学誌に毎週のように新しい発見が報告されている」と述べている。

成体幹細胞が胚性幹細胞のように完全な「可塑性」を持っていないとしても、成体幹細胞が実用化に十分な可塑性を持っていることに間違いはないだろう。テネシー・メンフィス大学の神経科学・神経外科教授Dennis Steindlerは、次のように述べている。「これらの成体組織の将来は、我々が考えているほど限定的ではないと考えられる。」「胚性幹細胞と同じ可能性を持たない部分があるかもしれないが、我々が誘導することで、希望するほぼすべての細胞に変化させることができるだろう。」

さらに、胚性幹細胞と同様に、成体幹細胞にも任意の組織に変形する能力があることを示唆する研究が一部の科学者によって行われている。3人の科学者が、成体幹細胞が胚性幹細胞と同程度の可塑性を持つことを示唆している同僚の科学者の認めた研究を最近発表しました。ミネソタ大学のCatherine Verfaillieは、希少な骨髄幹細胞に関する研究を行っている。ブリズベーンにあるグリフィス大学のAlan Mackay-Simは、鼻の神経細胞に注目している。タフツ大学のDouglas Losardoは、骨髄が9種類の組織に分化することを発見した。科学者でない私たちにとっては意外だが、人体のしくみは、細胞レベルではまだ完全に解析されていないのだ。さまざまな組織に分化できる機能を持った細胞は他にもあると思われる。

メディアは、胚性幹細胞の研究に代わるものがないかのように報じているが、それは、破壊的な胚子研究のベネフィットに個人的、経済的利益を求める人々によって流布された幻想である。この研究のために胚を破壊する権利は誰にもない。我々は、胚を破壊する必要がないという点において倫理的で、実際に成功例のある成体幹細胞の研究を推進するべきである。

幹細胞とクローニング

胚性幹細胞研究は、クローニングの始まりである。前述の通り、免疫による拒絶反応の問題を克服するために、胚性幹細胞治療の推進者は、クローン胚を作成しなければならないと考えられる。クローン胚から赤ん坊を誕生させることには、ほぼすべての科学者が反対しているが、クローン胚を子宮に移植すれば、それは実現可能なのである。悪徳な科学者の中には、すでにそれを試みている者もいる。

さらに、胚性幹細胞を利用しようとする科学者の大半には、いわゆる生殖目的のクローニングに関する倫理的懸念がないように思われる。彼らは単に、クローンチャイルドの危険性を説くだけである。幹細胞研究に関する倫理ガイドラインにおいて、米国の科学アカデミーは(2005年5月)も次のように述べるにとどまっている。「NT(核移植、すなわちクローニング)によって子どもを作ることは、他の哺乳類の場合を考えると、現段階では一人の子どもを得るために何百もの妊娠を必要とし、異常を持つ後期胎児が発生する数が多いと予想されることから、倫理的に問題である。」

現時点において、これはまぎれもない事実である。しかし、動物学者はこうした問題を解決すべく努力しており、彼らの研究がヒトのクローニングの問題に応用される日がいずれ来ると考えられる。そうなった時、幹細胞研究者のはかない反対運動は水の泡になり得る可能性がある。クローン胚の形成を中止しない限り、クローンチャイルドの誕生は必ず起こると考えられる。治療目的のクローニングと生殖目的のクローニングを区別する唯一の「明るい線」は、胚を形成する研究の意図である。すでに、数組のアメリカ人夫婦が、死亡した自分達の子どものクローニングを公に訴えている。法律家たちは、憲法に生殖の権利がうたわれている以上、たとえそれがクローニングであったとしても、生殖手段を利用する権利が憲法上認められなければならないと考えている。

幹細胞研究の倫理

胚研究に関する議論は、宗教的な問題に限ったものではない。あくまでも人間の権利に関する議論であり、善の科学対悪の科学についての議論である。もしそうなら、人間の権利を尊重する科学は、全面的に成功を勝ち得ていることになる。信仰は、聖書やコーランに表されているような人間の尊厳の重要性と目的を強調することで、幹細胞に関する議論に一筋の光を投じている。しかし、信者でなくても、ヒトの胚を操作し、破壊することが倫理上重大な問題であることは理解できるはずである。胚は初期の生命であり、胚の扱い方を決める原則は、ヒトの存在のその他の段階にも適用される。しかし、この議論の基本的パラメーター(媒介変数)は、人間の権利を尊重する倫理的で優れた科学を構成する要素なのである。

胚性幹細胞を巡る議論は、猛烈で感情的なものになりがちである。そうした中、下記の点を重視する必要がある。

1.ヒト胚を破壊することは、倫理に反している。たとえ他の人の生命を救うためであったとしても、無垢なヒトの生命を破壊することは、決して正当化できることではない。胚は、ヒトと見なすにはあまりにも小さく、したがって、研究材料として使ってもよいという議論がしばしば聞かれる。しかし、大きさは、物事の本質を見極める基準にはならない。ビッグバン説を信じるなら、世界はかつてこの文章のピリオドより小さかったことになる。しかし、それにはあらゆる要素が含まれていた。同様に、子宮外で生存できない胚は、人間性を欠くと言われている。確かに、世界的に有名な物理学者のStephen Hawkingは、ルー・ゲーリック病のため、話すことができず、車椅子での生活を余儀なくされている。しかしながら、介護者に完全に頼っている彼の人間性を疑う人は誰一人としていない。

2.胚性幹細胞には、癌を誘発する可能性がある。胚性幹細胞は「可塑性」が非常に高いが、裏を返せば、悪性化する傾向があると言える。これは、胚研究の擁護者にとっても重大な問題となっている。Journal Stem Cellsの2001年9月号の編集者は、下記のような驚くべき発言を行っている。「臨床への応用には、まだ時間がかかるだろう。胚性幹細胞や胎児幹細胞の臨床利用の前に、胚性幹細胞の悪性化の可能性を十分に調査する必要がある。」成体幹細胞は、胚性幹細胞より安定しており、腫瘍を形成する傾向も低い。

3.胚を利用する必要はない。成体幹細胞が実行可能な代替物となることが証明されつつある。たとえば、臍帯血や胎盤血には、幹細胞が豊富に含まれている。研究の結果、脳を含め、成人の事実上すべての主要臓器に幹細胞が含まれることが確認されている。前述の通り、成体幹細胞は、治療現場で利用されて成功を収めているが、胚性幹細胞は、理論上その潜在性が語られているだけである。この点を特に強調すべきである:成体幹細胞については、近年、実用面で多数のベネフィットが確認されているが、胚性幹細胞が実際に患者の役に立つかどうかは未だ立証されていない。

4.胚性幹細胞研究のベネフィットを確認するには、まだ時間がかかる。宣伝好きな科学者から情報を持ち込まれたメディアは、5年から10年後には不治の病を治療できるようになるとほのめかしているが、これはかなり疑わしい。治療が目前であるといった誤った希望を与えることは、罪である。

5.成体幹細胞を利用すれば、胚性幹細胞の使用に伴う大きな問題、すなわち免疫拒絶反応を克服できる。我々の体は、体内に他者の組織が埋め込まれると、すぐにそれを認識し、攻撃を開始する。自分の体から採取した細胞を使用することで、適合性の問題は回避することができる。

胚研究と人間の尊厳

胚を使って研究を行うことは、胚の段階であるヒトを使って研究を行うことである。それは、ヒト胚の尊厳を否定することになる。ヒト胚は、明らかに生きている人間であり、他の人間と同じ権利を持ち、守られるべきである。ヒトの生命は受胎(すなわち受精)の瞬間から始まる。したがって、ヒト胚は(その形成方法に関わらず)、目的を達成するための手段として扱われるべきではない。胚には、生きる権利があり、尊重されるべきである。胚の発達が始まれば、それはもう個体としてのヒトであり、単なる器具のように扱うべきではない。こうした理由から、ヒト胚の破壊を伴うテクノロジーや治療案はすべて禁止されるべきと言える。

IVFの凍結胚はいずれ破壊されるという意見を述べている人もいるが、彼らは、重要な点を見落としている。胚の形成を依頼したカップルは、子宮内への移植、生命の誕生を目的としてその行為を行っている。余剰胚の存在は、深刻な問題である。IVFのプロセスで生じた科学の失敗と言ってもよい。しかし、胚を実験に使うことで、この失敗をさらに広げるべきではない。我々は、IVFの余剰胚に関する倫理的ジレンマをもっと人道的な方法で解決すべきである。ひとつの可能性として、養子縁組が考えられる。それが無理な場合、尊厳死を認めるべきである。

胚を実験に使用することで、尊厳をもって扱われるという基本的な権利が否定されることになる。これは理解しにくいことかもしれないが、具体的に把握してもらうために過去の例をあげよう。先頃、オーストリアの有名な医師の診療所から、子どもや赤ん坊の体の一部が数百個も見つかった。彼は、それらを1940年から1944年のナチス統治時代に入手し、研究に使用していた。この事実が明るみに出たとき、オーストリア人は憤激した。当局も、子どもたちはいずれにしても亡くなっており、彼らの主要臓器から貴重な知識が得られたという見解を示すことはなかった。共同埋葬には、大勢の人が参列した。無力な胚が置かれている状況も、これと同じである。

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