家族 / 自然な家族計画 : 研究論文

家族の価値と安全なセックス

Trujillo, Alfonso L トゥヒリ・アルフォンソ
カトリック教会は、AIDS予防の完全に有効かつ十分な手段としてコンドームを奨励しているプログラムを繰り返し批判してきた。世界いずれの地域の司教協議会もこのプログラムに関する懸念を表明している。南アフリカ、ボツワナ、スワジランドのカトリック司教協議会は、「無秩序に拡大するコンドームの使用奨励は、次の理由からHIV/AIDSと戦う我々にとって非道徳的で見当違いの武器であるとはっきり見なしている。*コンドームの使用は人間の尊厳に反する。*コンドームは愛という崇高な行為を身勝手な快楽追及の行為に変え、一方で責任を回避させる。*コンドームはHIV/AIDSの予防を保障しない。*コンドームはHIV/AIDS拡大の大きな理由の1つにさえ挙げられる。コンドームの品質の悪さや誤用の可能性は別としても、コンドームが一因となって自制する心や互いを尊重する心が薄れている。

高齢者の介護と死を迎えること

Novotny, Jerry (OMI) ノボトニー・ジェリー
必然的で不可逆的であることに加え、老化プロセスは利己的でもある。過ぎ去っていく時間に対する反応は、人それぞれ異なる。同じ雪片が2つとしてないように、木の葉、指紋、そして人間も同じ物は2つとして存在しない。我々は、その気性、能力、経験において根本的に異なっている。我々一人一人が個性を持ち、人生の変化や難問に対する反応は、特徴的でそれぞれ異なっているのである

HIV/AIDS

Billings, John ビリングス・ジョン
「ビリングス排卵法」の体に優しい方法は、二人の間の関係にすばらしい進展をもたらします。なぜなら、相手のために、性交せずに待つ時を寛容に受け入れることは、お互いに対する愛情が増し、それによって相手に忠実であり続けようとする気持ちになることを意味するからです。一人一人を護り、エイズという病気を止めるために必要な責任ある性的関係を本当に促進することができるのは、自然な家族計画法だけなのです。

家族は教育のゆりかご

Billings, John ビリングス・ジョン
家族に新しい赤ちゃんが加わると、その赤ちゃんは家族に、特に兄弟達に大きな変化をもたらします。子ども達はすぐに赤ちゃんの大切さ、どんな世話を必要とするのか、何が最優先されるべきか、何を欲しがるのか、そしていかに赤ちゃんが欲しがるものがすぐに与えられているかを認識するのです。そして赤ちゃんはみんなに、自分中心でなくなること、責任や愛、気配りすること、色んなレベルで話しを聞いたり会話をすることの大切さを教えてくれ、そんな赤ちゃんがみんなは大好きなのです。

良心の問題

Billings, John ビリングス・ジョン
良心が先生ではなくて、鍛えられる必要があるのは生徒なのです。人権の神聖さに賛成の人たちは、同時に良心の最重要さに賛成することはできません。良心の最優先が意味するものは、個々の人が、全ての行為が正しいか間違っているかに関する自分自身の判断を信頼する資格があるということでしょう。そのような判断をしたいという願望は、アダムとイヴが「神のように、善悪を知る者となる(創世記:第3章5)」ようにそそのかされたときのエデンの園へと私たちを連れ戻します。

教会の教示とヒトの生殖

Shea, John B. シー・ジョン
教皇パウロVI世は、避妊という行為が、男性が女性を尊重する気持ちを失わせ、女性を自己の享楽の単なる手段としか見なさなくなると予見したことで、その洞察力がいかに優れていたかを歴史的に証明した。中絶や性感染症の爆発的な増加は、化学的避妊薬の合法化とその利用が拡大した結果、不特定の相手との性交が増えたことの証明である。また、教皇は、道徳的危機を無視した当局が、婚姻している男女にとって不正な手段によって社会問題を解決しようとする危険があることも警告している。その証拠は、現在、国連が支援している世界的な避妊と中絶の推進、中国政府による一人っ子政策に表れている

臓器提供:困った真実

Shea, John B. シー・ジョン
臓器を入手する方法自体が道徳的に正しければ、臓器提供は道徳的に正しい行為と言える。これが通用する状況が説明されている。重要な問題は、「脳死」と宣告された場合、あるいは「心臓死」である場合に、その人が本当に死亡しているかどうかである。その答えは、科学的証拠に照らし、心臓死または脳死の基準が、患者が本当に死亡しているかを確実に示すことが立証されていないことにある。Mauro Cozzoliは、胚の地位に関する記述において、「我々が人間を扱っているかどうかの不確実性は、理論、原理または教義上の立場(dubium uris)において、抽象的な疑念ではない。したがって、それはヒトの生命、ヒトが今ここに存在することに関する事実(dubium facti)についての疑念なのである。」と記している。真の意味において、「確実性と同じ義務が生じるのである。