死刑 : 説教

「今日、救いがこの家を訪れた」

Cariino, Al カリノ、アル
私たちがイエスの呼びかけに応えるとき、すでに判決をうけた人々からみれば特に、私たちの会話は「罪深い者」と疑いの目で見られることでしょう。しかし、そんなこと気にしないようにしようではありませんか。ザアカイが気にもとめなかったように。大切なことは、イエスの私たちへの語りかけを聞くことであって、イエスが私たちの家に泊まりたいとの声に応えると、イエスはザアカイに言われたと同じように「今日、救いがこの家を訪れた」と言われます。

二人の息子と帰郷

Cariino, Al カリノ、アル
子供は父親に背いた時、どんなことをするでしょう?まず、父親を避けます。もしこれができなければ、特に母親など、第3者がいることを確認します。怒りに直面した時には、子供は無言作戦をとったり、これがうまく行かない場合には、あらかじめ準備しておいた答えを使います。ふつうは誰か別の人のせいにする、という方法です。一方で父親は子供が自分の非を認めれば、自分はすでに許しているんだよということを言うことができるのに、と思っています。この父親の態度を「許しの父親のたとえ話」として多くの人に親しまれている「放蕩息子」(ルカ 15:1-3;11-32) に見ます。

未完成を嘆く

Rolheiser, Ron ロルハイザー・ロン
私たちの信仰は、それらのものを管理する道具を、与えるものでなければなりません。そして自分たちが不完全なものとして生きて死んでゆくという事実を、悟させるようなものでなければなりません。淋しくて、いつも何かを待って、そして最後に私たち人間は1人で眠りにつくのです。私たちはそれらのことを受け入れて生きて行かなけ ればなりません。もしそうするならば、余裕をもってまた幸せな生き方ができるでしょ う。そうしないのなら、自己中心的なままなのです